斗南藩の歴史(22)会津斗南藩資料館「向陽処」 むつ市・大間

 

 展示品の紹介

『松平容保公の「向陽處」の掛け軸』

この資料館の名称にもなっている掛け軸。「自分たちは賊軍と言う汚名を着せられ流されて来たようなものだが、きっといつかは陽のあたる処に出ることもあるであろう。その日まで会津藩士の誇りを失うことなく努力しよう」と言う意味が込められているそうです。「源 容保」の署名があります。徳川氏は源氏の流れを公称していたので「源 容保」と言う署名になっています。
凛とした、とても美しい書です

『会津鶴ヶ城下の屋敷割りの図』

細かい屋敷割りにはそれぞれの家臣の名前が記されています。展示してある物を見ると「田中土佐」、「萱野権兵衛」、「西郷頼母」、「山川大蔵」などの重臣達の名前が見つかります。

『「布告」の書』

これは明治政府により「廃藩置県」が行われ、斗南の地を離れる事になった松平容保が幼少の斗南藩主、容大(かたはる)の名を借り藩士達への別れの言葉をしたためた物と言われています。

  この度私達は東京へ行く事を(新政府より)指示され将来的に、あなた方と苦労を共にする事が出来ない事は私の気持ちとしては耐え難いけれども新政府の命令であれば、止むを得ない事と思う。これまで若輩者の私が(京都守護職を任され、戦争で敗れたにも拘わらず)罰せられなかったのは、つまりあなた達が敗戦の苦境の中でも会津を守る為に奔走され努力した結果である事と、私は大変嬉しく思います。これからも新政府の指示に従い、心身労を惜しまず限りないお情けに報いるべく努力される事を私は希望しております
                             八月二十四日  松平容大

『広沢安任(ひろさわやすとう)の掛け軸』

広沢安任は松平容保が京都守護職を務めていた時に会津藩公用方を務め、藩主の職責を支えた家臣の一人です。
労極人値麦隴東鼻端汗済午無風尋常一様杯中物纔在此時味不問  牧老人  

「牧老人」と言うのは広沢安任の号で三沢の地に日本で初めての洋式牧場を開設し牧場経営に生涯を捧げるようになって名乗るようになりました。

広沢安任の功績は三沢にある斗南藩観光記念村先人記念館で詳しく見る事が出来ます。
また、広沢安任の開設した洋式牧場は現在も広沢牧場として続いています。

会津藩家老神保内蔵助の次男で北原家の養子となった
『北原雅長の掛け軸』


松平容保の謹慎生活中に側近として従っていた医師であり歌人の
『馬隝瑞園(まじまずいえん)の掛け軸』

東洋大学の前身である私立哲学館を創設した
『井上円了の掛け軸』
『容保公の短冊』
『照子姫の短冊』

会津から移り住んで来た館長の先代
『木村重孝とその妻に縁の品々』
『秩父宮雍仁親王の掛け軸』

秩父宮雍仁親王の妃殿下は旧斗南藩主松平容大公の姪にあたられる方で昭和十一年十月に下北を巡遊なされましたが、その時に書かれた物のようです。

会津藩士やその家族が下北へ移住する際に乗船した
『蒸気船ヤンシー号の絵』

「足利三代将軍梟首事件」に密偵として活躍した
『大庭恭平に縁のある物』

武勇に秀でて、「鬼の官兵衛」または「鬼佐川」「鬼官兵衛」と恐れられた
『佐川官兵衛に縁にある物』

『白虎隊自刃の図』
等々他にも色々と展示されています。

「斗南藩」の藩名は、「北斗以南皆帝州」、つまり、北斗七星 の南は等しく帝(天皇)の国である、と言う中国の詩文に由来すると言われています。そして、隠れたもう一つの説「南斗六星」を語源とする説。星座図を見ると射手座の矢がとなりのサソリを射抜こうとしています。射手座は会津藩、サソリは薩長。当時の会津藩士の心情を思うとその様な説があっても不思議ではありません。
そのイメージで描いた絵が掲げられています。

会津斗南藩資料館「向陽処」 

開館:午前10時~午後5時
 入館料: 大人  500円
      大学生 300円
      中高生 100円
      小学生  無料

所在地:青森県下北郡大間町大字大間64-1
(有)リビングキムラ 2F
TEL:0175-37-3307
(大間郵便局の向かい側です)

歩いて1~2分の所に大間漁港があるので車はそこに停める事が出来ます。また、迷惑にならない範囲で向かい側の郵便局、北信用金庫の駐車場へ停めても大丈夫なようです。日曜日も原則的には営業しているそうですが万が一の事もあるので電話、メール等で確認して下さい。