斗南藩の歴史(18)日本最古の白虎隊の墓を建立した大竹秀蔵

大竹秀蔵の墓がある隅ノ観音
大竹秀蔵の墓がある隅ノ観音

            斗南藩歴史研究会 大庭紀元 

 

 会津若松では、三戸に遅れること10年、明治14年(1881)に飯盛山上に一基の石碑が建てられたのが最初である。明治20年頃から蘇生者飯沼貞吉が語り始めたことによって、自刃の詳細が明らかとなり、明治23年初めて19士一人一人の墓碑が建てられ、大正15年(1926)再建され、のち修復されて現在に至る。このような状況下で、碑を建立した気概、同胞愛にあふれた会津魂と彼の真情を思うにつけ、斗南藩末裔の一人として、大竹秀蔵の人物像を追ってみる。

 

大竹秀蔵の出自 
 (しゅつじ・・・生まれ、家がら、素性)

 大竹秀蔵は、会津若松の本二ノ丁と三日町通の北西の角に屋敷を持っていた450石大竹主計(かずえ)の弟である。兄主計(46歳)は、軍事奉行であり遊隊頭(純義隊総督)で9月15日、面川口(或いは御山口ともいう)の戦いで戦死した。父新十郎は嘉永年間に死去してすでになく、母シヲは斗南移住直前の明治3年正月13日に死亡した。
 母シヲは千7百石の家老、諏訪伊助の娘であり秀蔵の父大竹新十郎に嫁ぐ。生家は大竹家の真向かいで、本二ノ丁と三日町通の西南の角邸である。「戊辰若松城下明細全図」を見ると明らかである。 
 秀蔵が三戸へ移住したのは、明治3年4月から10月の間であるが、移住経路や月日については不明である。叔父一家の甥として三戸入りした。
 三戸町役場に保存されている大竹秀蔵の戸籍簿によると
○三戸町二日町16番戸
 天保8年4月8日生(1837)
 (註 右の住所は「若庄」小笠原家 の番地 現富士パチンコの跡地付近)
○大正2年3月3日(1913)
 三戸郡向村(現南部町)大字小向字 南古牧20番地に転居

(註 秀蔵が養子を得た宮久七の畑の番地)
○大正14年5月11日(1925)
 三戸町大字川守田沖中七十四番地で死亡(註 右番地は現在の三戸町上野写真館の辺り、行年86歳、法泉寺過去帳では82歳とあり、年齢が異なる) 
○生涯独身
 三戸町六日町法泉寺の過去帳に次のようにある。
  大正14年
  泰翁是安信士  大竹秀蔵

観福寺にある白虎隊の墓
観福寺にある白虎隊の墓

 

日本最古の白虎隊の墓碑を建てた
斗南藩士大竹秀蔵をめぐって
  
 三戸へ移住した斗南藩士大竹秀蔵が明治四年(1871)正月に三戸町観福寺境内に建立した白虎隊碑は全国最初のものである。(昭和39年「真正日本史研究」同人吉田順一)
「紅顔可憐の 少年が死をもて守るこの保塞(とりで)・・・」霧島昇「白虎隊」の歌詞にある如く、わずか16〜17歳の白虎隊士が戸ノ口原の戦に敗れ、日 向内記隊長ともはぐれ、飯盛山に退き、黒煙につつまれた鶴賀城を望み見て、「もはやこれまで」と思い自刃した。国難に殉じた精神は、敵味方を問わず、思想 を超えて世の人々の感動をよび、今なお飯盛山の墓前に線香の絶えることがない。しかし慶応4年(1868)8月、飯盛山上の少年たちの屍は、カラスや野犬 にさらされ、土地の者(滝沢村の名主伊惣次)が見るに見かねて埋葬した。しかし伊惣次は官軍に知られるところとなり、捕えられ、入牢されるしまつで、官軍 は市中の屍の埋葬も許さなかったのである。まして墓碑を建てるなど許されるはずもなかった。

 

大竹秀蔵「白虎隊の墓碑」を建立

 そのような時期に三戸へ移住した秀蔵は、三戸町熊の林にある浄土宗観福寺境内、本堂に向かって右手、住職高杉家の墓地の近くに、秘かに白虎隊士弔魂の墓碑を建立した。
 会津若松で、白虎隊の惨劇が話題となり始めたのが、明治20年以降であることから、どうしてそのことを知っていたのか。秀蔵34〜35歳、少年達は 16〜17歳であった。しかも隊士の氏名まで刻んであることに驚く。大庭家と親戚となる林八十治の名が欠落しているのは残念であるが。秀蔵と白虎隊士との 接点は不明である。三戸に移住して半年の間に建立したのである。


右側面  
 会津産諏訪伊助娘嫁而為大竹親君妻哉
正面
簗瀬   竹治  鈴木  源吉  伊藤  俊彦石山虎之助 野村駒四郎 有賀織之助 西川勝太郎 永瀬  雄次  篠田義三郎  伊藤悌次郎 池上新太朗  簗瀬勝三郎 安藤   三郎  井深茂太郎 飯沼貞治 間瀬源七郎    石田和助   忠烈古今罕ナル白虎隊ノ英魂ヲ弔ハン
○記載を欠く者3名  津田捨蔵 津川喜代見 林八十治
○氏名の誤記ある者数名 ○蘇生者飯沼貞吉を記載
            
左側面 明治4年未正月13日
 右側面に、会津産諏訪伊助娘為大竹親君妻哉(会津諏訪伊助の娘而嫁して大竹新十郎の妻となるたりなり)とあり、これは自分の母親シヲの説明である。秀蔵の母の一周忌命日に建立している。白虎隊士弔魂と母シヲを弔う真情を持って建立したものと思われる。三戸移住後の混沌とした世情の中で、決して豊かな生活をしていたとは考えられない。むしろ、食事に事欠く毎日だったであろう。そういう窮状の中での建立である。

秀蔵が建てた墓石・他に2基あり
隅ノ観世音(すみのかんぜおん)墓

   利観妙大姉
   大竹秀蔵現正親墓
 
   
        明治29年旧5月1日
       俗名 荒木りよ
       行年29歳

白虎隊の墓がある観福寺
白虎隊の墓がある観福寺

秀蔵の人物像にせまる
 
 観福寺高杉龍眼前住職(昭和25年白虎隊碑の再発見者)の談、「大竹秀蔵が、一生の大半を世話になった通称〈若庄〉は、観福寺の檀家総代であった。その関係で白虎隊の墓碑が建てられることになったのかもしれない」と語る。移住直後の混乱の中、食うや食わずの赤貧の生活の中でどうして白虎隊の墓碑を建てることが出来たかの疑問が一つ解けた。移住した同士に寄付を募った記録がない。同士に計ったのであれば、墓碑に自分の母親シヲの私的事項を刻むはずがないと考える。恐らく財力も「若庄」の支援があったものと思われる。
 「俺は死ぬときは五戸の親戚へ行って死ぬ」と言って、長々お世話になったお礼にと刀3振りを「若庄」に置いて去った(釜澤猪太郎氏談)とも言われる。
 宮義勝談(秀蔵に養子を出した宮久七の孫)「現在はその家はないが、宮の子どもを、大竹秀蔵の養子にして、近くの畑に家を建てて分家させたそうだ」宮義勝が子どもの時、秀蔵は勉強を教えたり、会津の戦争で夜逃げてきたときの様子、崖から落ちて死ぬところだったなど話を聞かせたという。秀蔵が飴を売って歩いた時の引き出しのついた背負い箱が残っている。「自分が死んでも墓を建ててくれる人が誰もいないから、古町の観音様の前に自分の墓を建てておいた」と秀蔵が言っていたという。

矢村績(やむらいさお)
矢村績(やむらいさお)

矢村績が「白虎隊の一族並びに旧会藩(かいはん)士に檄す」という一文を残している。(観福寺蔵)

白虎隊の一族並びに旧会藩士に檄す

 南に赤穂47士の義士あり、北に会津白虎隊の忠勇無比あり、わが国武士の亀鑑として世人の普く称賛する所なり。しかるに赤穂浪士の碑は高輪泉岳寺にありて、香華絶える時なく、独り白虎隊にあっては未だその碑のあるを聞かず。
[中段略]
 績たまたま大正12年10月18日、観福寺を歴訪しその碑に拝するを得たり。しかしその建立者大竹秀蔵に親しく面接するに及んで、その人の現代に超絶し古武士の風ありを知り、以来この人と語るを持って得るところ少なからず。同氏は旧会津藩士にして450石を領せし大竹主計の令弟にして、今80余歳の高齢にしてなお健全なり。
秀蔵が没する2年前のことである。

 

矢村家は武田信玄(晴信)の後裔とも云われ、名刀「則光」が現存する。温重(はるしげ)を初代として、8代目精記(せいき)が斗南に移住し、績(いさお)は倉石村中市で出生した9代目である。績は現二戸市舌崎小学校で教鞭をとったり、釜石の助役を勤めた。矢村家の後継者は三戸町久慈町に在住している。

矢村家は武田信玄(晴信)の後裔の証とも云われている名刀「則光」
矢村家は武田信玄(晴信)の後裔の証とも云われている名刀「則光」
家系について
家系について
激励文1
激励文1
激励文2
激励文2
激励文3(後日、ツムグとフリガナしているがイサオと読む)
激励文3(後日、ツムグとフリガナしているがイサオと読む)
観福寺印
観福寺印
大竹秀蔵の墓(ここには遺骨は無い)
大竹秀蔵の墓(ここには遺骨は無い)

大竹秀蔵の人物像 

 秀蔵の写真も肖像画も残っていない。矢村績(いさお)・大庭茂が共に古武士の風ありと表現しているので、そこから風貌が想像できるのみである。会津では死体の処理さえ許されず、墓を建てる事など出来なかった状況下に、賊軍として三戸入りした秀蔵が半年の間に白虎隊の墓碑を建立したのであるから、よほど腹の座った人物とみるべきである。反面、北辺の地であったが故に可能だったのかもしれない。
 生業はなんだったのか。小笠原家「若庄」に世話になったとあるが、いわゆる居候だったのではないか。昔、大きな商家にはそうした人がいたものであると聞く。南古牧に転籍してからは、養子末太郎一家と農業をしたと思われるが、その農業が合わなかったのか、引き出しのついた背負い箱で飴売りをして歩いた。もう一つ考えられることは、大庭家に置いていった書物とゼイチクから推測すると、易者をしたのではないかとも思われる。白虎隊の墓碑を建てた以外、何をしたという業績も見あたらない。三戸在住の斗南藩士が多数いたにもかかわらず、又、太田弘三はじめ多くの文人がいながら、何らの記録がない。その生き方はまったく謎に包まれている。

「通称「若庄」について」


 三戸へ移住した秀蔵が寄宿した住所が二日町十六番戸、これは、通称「若庄」と呼ばれていた大きな商家であった。氏名は「小笠原庄三郎」、屋号は「若松屋」、若松屋の「若」と庄三郎の「庄」をとって通称「若庄」と呼ばれていた。会津若松出身の小笠原家は明治維新以前から三戸で商売をしており、しかも大きな財を成していた。山林、田畑、市中の土地を莫大に所有していたと思われる。大庭勇助(曾祖父)は現在私が住んでいる在府小路の土地と田子にあった水田を「若庄」から購入している。山はどうかと進められた勇助は、三戸には長くいないからと山林は断ったという。在府小路には「若庄」の長屋がたくさんあった。会津出身の大商人がいるところに移住した斗南藩の人々は心強かったであろう。陽に陰に「若庄」に世話になった事であろう。三戸はかつて南部藩の居城があり、代官所が置かれており、農作物も適度に育つ地域だったこともあり、他に移住して苦労した人たちとは比べものにならない程、恵まれていたのではないか。「若庄」が秀蔵らを世話できたのはこんな事情であった。

運気発揚 万録寿宝 玉三世相
運気発揚 万録寿宝 玉三世相

大庭茂(父)の談

 茂が幼少のころ(十歳前後)時折訪れる大竹秀蔵についての記憶では、よれよれになっているが、何時でも袴をはいていた。両肩が怒って見え、いかにも古武 士の風といった感じである。秀蔵は時々大庭家を訪れ、お茶を飲んだり食事をしていたようだ。秀蔵は「長々お世話になりました」と言って、私の家に筮竹(ぜいちく)と分厚い書物を置いていった。その書物は「運気発揚 万録寿宝 玉三世相」と表書きしてある。茂の兄一郎の筆跡で、大正14年4月3日、大竹氏よ り寄贈とある。この月日は秀蔵が亡くなる38日前のことであり、死期を悟ってのことであろう。この書物は今でも大庭家に保存されている。
 大庭さと(茂の母、私の祖母)の話に「大竹さんはウシロザイゴの方へ養子に入ったそうだが農家と生活が合わなかったそうだ」(養子に行ったのではな く、養子を得てその畑に住んだのである)「大竹さんは元木平の何とかという人の家にいて死んだ。本人は観福寺の白虎隊の墓碑の傍に埋められたかったそうだ が、法泉寺に埋められたそうだ」と言っている。

 

 

大竹秀蔵が飴売りをしていたときの箱が残っている。(大庭紀元氏 蔵)
大竹秀蔵が飴売りをしていたときの箱が残っている。(大庭紀元氏 蔵)

法泉寺上田豊山住職の談
   (秀蔵の過去帳がある)

 「大竹秀蔵の墓は法泉寺にはない、南古牧の宮家の墓地にあれば有り、或いは無いかも知れない」古くから宮家は法泉寺の檀家であり、上田豊山住職の祖母が 宮家から出ている関係である。大竹秀蔵の孫にあたると思われる大竹義休・ヒデ夫妻とその息子清三の過去帳が残っている。
 大竹秀蔵が、生前に納めた白木の位牌が観福寺にある。正面に横書きで大竹家とあり、その下右側に秀蔵の父母の没年・戒名・氏名が記され、中央に朱文字で(不明部分あり)
「先祖代々光?院道広治終居士」
とある。左側には、養子末太郎と嫁リヨと記されている。
裏面には、観福寺 青森県三戸郡三戸町 大竹秀蔵納之となっている。
秀蔵が、生前に位牌を観福寺に納めていたことは、私の祖母が「死んだら白虎隊の墓碑の傍に埋められたかったそうだ」と言うことと符節が合う。白虎隊の墓碑 の側面に母親の説明を残したのは、自慢の母親への愛であろう。そして、白虎隊の墓碑の傍にということは、実は母の傍にという気持ちと同じであろう。この位 牌を生前に納めていたことから分かる。

現在墓の管理をしている宮家夫婦
現在墓の管理をしている宮家夫婦

 大竹秀蔵は妻帯していないが、養子を得ている。南部町大字小向字北古牧に居を構えていた旧南部藩士族宮久七(みやきゅうしち)の2男末太郎を養子にして、近くの畑に家を建て分家した。秀蔵が生前に、隅観世音墓地に建てた自分の墓は、秀蔵の養子大竹末太郎の妻りよ(荒木金五郎長女、利観妙貞大姉)の死去の際、併せて自分の名を刻み建立したものである。
 りよの骨は「国に還る」と法泉寺の過去帳に追記がある。国とは会津若松であろうか。りよは末太郎の先妻であろう。この年明治29年(1896)、りよ29歳、末太郎39歳、秀蔵60歳。

      大正8年11月14日  
        光 道 霊 円 信 士
        凉 月 妙   信 女 
        大正9年8月11日
戒名
  右は大竹末太郎51歳(秀蔵の養子)
  左は大竹ヤエ43歳(末太郎の後妻)

 この墓石は、現在北古牧の宮家の墓地の並びに移設されてあり、ただ一つの大竹家に関するものである。秀蔵が宮家から養子をもらい、南古牧の畑の中に家を建てて住んだ。現地に行ってみると、北古牧と南古牧は小川を挟んだ位置にあり、対岸の南古牧にあった宮家の畑に、養子末太郎家族と共に住んだ。秀蔵が南古牧20番地に転籍したとある戸籍はこのことであろう。後になって宮家で南古牧の畑を売った際に、この墓石は北古牧の宮家の墓地の一角に移された。
 養子末太郎の先妻りよも早世し、大正8年には末太郎本人、翌年には後妻のヤエも死亡した。養子に先立たれた悲しみからか、独りぼっちになった寂しさからか秀蔵は山から下りて再び三戸に老骨をさらすことになる。

堀内床屋
堀内床屋

秀蔵終焉の地がわかる
 
 堀内正の長女、都谷森静江(とやもりきよえ)さん80歳・八戸市在住から聞いた。「秀蔵は堀内床屋によくお茶を飲みに寄っていたと聞く。しかし秀蔵の遺骨は家には置いていなかった。「預かってもらったのは龍泉寺だと思う」とのことである。戸籍簿にある秀蔵の終焉の地は三戸町川守田字沖中74番地である。 現上野写真館の辺りとなっている。都谷森さんの話では、上野写真館の三戸寄りに三軒長屋があったという。山を降りた秀蔵は、最期の数年間、年金も少々あり その長屋で独り暮らしだったのではないかと思われる。
 堀内床屋とその長屋は、住谷橋を渡って実測200メートルの距離である。秀蔵が足しげく通い、親交を深めていたものと思う。堀内正は龍泉寺の檀家であ り、 しかも弓をやる人で、当時弓道場は龍泉寺にしかなく、たえず寺に出入りし、先代の住職とは懇意であった。恐らく秀蔵の遺骨は龍泉寺に38年間預かっても らったと推測できる。これで、秀蔵が何処で亡くなったかの謎が解けた。

大竹秀蔵の遺骨が眠るこの地をついに発見した筆者
大竹秀蔵の遺骨が眠るこの地をついに発見した筆者

秀蔵の遺骨の所在が判明

 宮さんご夫婦が拙宅を訪れ、言い忘れた事があると言って、話してくれた。
昭和37年(1962)、三戸駅通りで床屋をしていた「堀内正」が大竹秀蔵の骨壺を抱いて早朝宮家を訪れた。そして宮義勝と堀内正の二人で、大竹家と関 係のある墓に納めた。宮家の墓地には大竹家と関係ある墓は一つしかない。養子末太郎と後妻ヤエの墓石である。堀内正は預かった遺骨を然るべき所に納めた かったのであろう。38年間遺骨を預かっていたのは大竹姓の人へ渡したかったからであり、行方しれずのまま時がたったものと思われる。この遺骨は現在北 古牧にある宮家の墓地の並びに眠っている。これで謎の一つ、秀蔵の遺骨は何処にあるのかが判明した。