斗南藩の歴史(19)小川 渉

斗南藩歴史研究会 大庭紀元

 

「土津霊神家訓」を書いた小川渉

 「続 会津の歴史」(葛西富夫著)には、斗南藩の人材と業績の章で、「公議正論の人小川渉」として紹介されている。
 小川は、旧会津藩時代には日新館に学び、才学優秀のため選抜されて江戸の昌平黌(しょうへいこう)に学んだ会津藩の英才の一人であり、斗南移住後は藩 きっての文章家といわれた。青森県誕生後、青森県権大属となり県議会の書記長をやったが、青森新報社をおこして後に社長となる。青森県新聞記者の第1号と いわれる。いわゆる「公議正論」をもって青森県民の啓蒙にあたった。自由民権運動のため、しばしば投獄されたが屈しなかった。
 会津若松では「会津藩教育考」の著者として広く知られている。680頁に及ぶ著作であるが、その遺稿は、昭和6年12月20日、東京大学出版会から発行された。私はこの本を神田の古本屋で探し当てて手に入れた時は、感動した。

小川渉直筆の家訓十五条
小川渉直筆の家訓十五条

家訓15条の制定

 家臣も家格によって供揃いをしなければならず、最上移封の際は高遠内の読み書きのできる者を士分に取り立て、最上では鳥居家の家臣を召し抱え、さらに会津移封になると加藤家の遺臣をも召し抱え、家臣団は種々雑多の構成であった。
 正之公は、藩主を含め家臣団に藩の成り立ちを認識せしめ、精神面の高揚と団結をはかり、心のよりどころとするため、会津松平家の憲法ともいうべき家訓15条を制定した。 特に第一条は強烈である「会津藩が立落したのは徳川家のおかげであるから、もしも宗家徳川家に二心を砲くような者があれば我が子孫と思わないから、そのような者に家臣一同はけっして従ってはならない」と激烈な訓示をしている。
 この家訓は歴代の藩主、家臣に伝えられ、独特の武士道、即ち会津士魂が形成され、維新には挙藩一致して国難にあたった。歴代藩主は、毎年正月11日、家訓の拝聴式を行い、読師が「御家訓」を読み上げると、藩主は平伏低頭して聞いた。家老職に任ぜられると、政庁の奥の間の土津神君の画像の前で、決して違反しないという誓詞に、自署して血判を押した。


青森県教育史に15条の家訓あり

 大庭家にある家訓の掛け軸を漫然とながめていたのであるが、青森県教育史第1巻147頁からの「会津藩の教育方針」の稿に、会津家訓15条が記載されているのを発見したときは驚いた。原本は漢文で読めないが、これには、ひらがな混じりの「べからず調」で記載されているので、今回そのまま引用しようとしたが、極めて難解である。そこで「土津神社と斗南」に載っている解釈を加えて15条を紹介する。

1.大君(たいくん・将軍)の義一心に大切に忠勤を尽くすべきで、列国の例を以て満足してはならぬ。

   もし二心をいだかば我が子孫にあらず。各々は決してこれに従ってはならぬ。
1.武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべきで、上下の分を乱すべからず。
1.兄を敬い、弟を愛すべし。
1.婦人女子の言は一切開くべからず。
1.主人を重んじ、法を重んじ畏(おそる)べし。
1.家中(士族町)では風儀(作法にかなったなり・姿)に励むべし。
1.賄(まいない)いを行い、媚(こび)を求めるべからず。

1.各々は依怙贔屓(えこひいき)すべからず。

1.士を選ぶには口先が巧みで人に媚び、要領よく立ち回る者を採るべからず。
1.賞罰には家老以外参加すべからず。もしその地位でない者がいたら厳重に正すべし。
1.近侍の者に人の善悪を告げさせるべからず。
1.政治は利害を以て道理をまげるべからず。詮議は私意を挟んで他人の言を拒むべからず。思うところは

 かくさず争うべきだが、いくら争っても我意をまじえるべからず。
1.法を犯す者は宥(ゆる)すべからず。
1.社倉(しゃそう)は民の為に置き、凶作の時倉庫の米を出して民を救うのであるから、その米を他に用

 うべからず。
1.もしその志を失い遊楽を好み勝者に流れて武士と民とに安住の所を失わせたなら、何の面目あって封印

 をいただき領土を領していられようか。必ず藩主たるの職を辞して蟄居(ちっきょ)すべし。

     右15件の精神を堅く守り、この後同職者に申し伝うべきもの也
                             寛文八年戊申4月11日
                                   会津中将
                                   家老中