斗南藩の歴史(12)渡部虎次郎

当時の渡部虎次郎
当時の渡部虎次郎

                        斗南藩歴史研究会  渡部昭治 

 

会津藩士の渡部家

 

 私は会津若松に特別な思いを持っている。会津戦争から130年経たが、私の家は旧会津藩士で、会津戦争で敗れ、会津藩23万石から僅か3万石の斗南藩に移封され、これに伴って藩士が家族共ども1万7千余りの民族の大移動が始まった。時に明治3年(1870年)の春のことである。
 渡部家は私の曾祖父織之助とその長男虎次郎〔号は道雲、重慎、乕〕一家であった。織之助も虎次郎も藩校日新館の出身である。移住は陸路と海路であったが大変な難儀であった。ようやく三戸町に他の家族と共に落ち着いた。南部藩では衣食住すべての生活の面倒をみてくれた、と伝えられている。

教員稼業が五代続く

 明治5年、学制発布となり、全国に学校が開校し、教員を募集したので、織之助、虎次郎共に採用となり、ようやく飯の種にありつくことが出来た。虎次郎の子どもも次々生まれたが、為治、七郎、ていもそれぞれ教員となっている。以来、教員稼業が5代続いている。

会津藩士の地を訪ねる

 平成14年10月、会津の歴史にふれるため、会津若松を訪れ、鶴ケ城を始め、白虎隊自刃の地、日新館〔再建〕、武家屋敷など会津藩ゆかりの地を歩き、思いを新たにした。
 私は飯盛山からはるか彼方にかすんで見える鶴ヶ城を望み、この地で自刃していった少年たちに思いをいたし、しばらくこの地を立ち去ることができなかった。
 また、現在三戸町に残るゆかりの地を訪ね、斗南藩の歴史についても少し調べてみたので記述してみたいと思う。星霜百有余年、今は斗南藩について語る人も少なく、影が薄くなったが、移住者と青森県とは関係が深く、そのかかわりを知ることは県人として大切なことではないかと思っている。

 

                                                  斗南藩歴史研究会 大庭紀元

 

渡部 虎治郎
(乕次郎・道雲等の号)

 明治3年4月20日、父織之助と共に三戸入りした。明治6年三戸小学校開校と同時に同校に奉職、28歳であった。明治24年に第三代三戸小学校長に就任。その後実に25年間にわたり三戸小学校に勤務した。訓導として、また校長として文武両道をかかげて三戸小教育の基礎を確立した。
虎次郎は書家としても高名であった。明治天皇御巡幸の際、三戸・五戸の行在所の揮毫、三戸大神宮の奉納額、杉原凱の墓、戊辰殉難者招魂碑など各地に筆跡が現存する。
 大正6年4月に70歳の生涯を閉じた。その翌年、かつて虎次郎の教えを受けた門下生が「渡部道雲先生の墓」を悟真寺に建立した。虎次郎が恩師杉原凱の墓を建立したごとく、この子弟関係は教育の原点であり、会津藩士の魂を感ずる。