斗南藩の歴史(11)井関鎮衛(いせきもりえい)

西越小学校 井関鎮衛校長(当時)
西越小学校 井関鎮衛校長(当時)

      斗南藩歴史研究会 山本光一

 

維新後会津から斗南藩士として移住


 青森県の地域の教育に貢献した、会津から移住した元斗南藩士を紹介する。
嘉永3年1月28日(1850年)会津若松の士族に生まれ、父は『恬斉(てんさい)』、母は『さだ』といった。幼名は彦五郎直冬といい、青年時代になって鎮衛(一般書籍では『ちんえい』の記載となっているが正式には『もりえい』である)と改め、大正末期に病気と老衰で74歳の生涯を医師不在の西越(現新郷村)で閉じた。
 17歳のとき、慶応3年正月の奥州戦争には越後国御新領酒屋詰井深隊に参加、赤公関所を守った。その時、戦況巡視の家老・西郷頼母が関所を訪れ「永々の出張と砲術の教示法が格別行き届いている」と士分に取り立て、お酒と手当二分が支給されている。
 維新後藩士とともに明治3年3月、高輪沖から船で下北に向かい、大湊に上陸。田名部小川町の木村藤蔵宅に住んだ。長男直春は青森県庁雇の等外一等出仕で八戸出張所勤務となった。
 鎮衛も、2年8カ月後は八戸町の二十八日町に転籍した。このころ、五戸町出身の運送業をしていた田島勘七から寺子屋の先生を頼まれ、明治7年9月三戸郡西越村に引越した。最初は日新館でも教鞭をとっていた、父恬斉が寺子屋教育を始めた。

西越小学校(当時)
西越小学校(当時)

井関家秘蔵に
   吉田松陰の真筆も

 井関恬斉翁は、明治24年に亡くなっているが、旧会津藩日新館の教範だった頃、徳川幕府時代に江戸、京都に天下の志士と往来交遊した人物でもあったらしい。当時、恬斉翁が秘蔵としていた書画に歴史家の文人であった頼山陽や経世論家の林子平、長州藩士で思想家の吉田松陰等の真筆と鑑定されたものがあったという。(友彦氏が東京で鑑定してもらっている)今はその書画の所在は不明となっている…。

 

小学校の建設に尽力

 明治12年には西越小学校を設立し、初代校長に息子の鎮衛が就任した。明治13年春、鎮衛は西越小学校の部落財産の木を切って小学校の建設にあたった。校舎は間口13間、奥行五間の2階建(130坪)、教室4室、講堂、体育館、職員室、住宅などがあり、山間へき地では二階建は珍しく話題となった。生徒の入学は隣村の戸来や倉石からも受け入れた。
 
行政にも力を発揮

 校長退任後、明治16年7月、戸長制度が発令、三戸郡第24組戸長に任命、準17等俸百80円の給与、手倉橋、西越両村の学務委員、そして、11月1日には両村の戸長、また、明治20年4月30日までの3年9カ月間、村政を担当、準判任官十等給に昇進、土地整理事務が優秀であると賞を受けている。
 明治22年5月には野沢村議に当選、村役場書記を勤めながら村役場開庁に努めたので、古一分銀五枚を賞与としてもらっている。明治24年、鎮衛名儀で県庁から西越・戸来間の沢を払い下げ、水田7・5ヘクタールを作り、西越小学校基本財産に寄付、学校運営に多大の功績をあげた。

井関鎮衛の追悼会を紹介した当時の新聞
井関鎮衛の追悼会を紹介した当時の新聞

農林畜産業にも功績

 明治26年から8年間、学校基本財産の増設をはかり、原野の立ち木伐採の禁止、山火事の防止、植林事業を奨励、八百ヘクタールの学校財産をつくった。農民には副業として牛馬飼料の増進と優秀馬の増殖に努め、西越馬の名声を高めた。
 明治34年(51歳)数々の功績が高く評価され名誉助役に選ばれた。明治36年には村民に副業の桑園設立を呼びかけ、養蚕を奨励、3年後には蚕糸会の結成会長となった。明治43年には野沢の八代村長に当選。愛国婦人会三戸郡幹事もつとめた。

 大正14年春。鎮衛の教え子など村民300名が相談して鎮衛の報恩碑建設をし、11月29日に除幕式、西越小学校で祝賀会が行なわれた。報恩会誌として「教化の稔」の小冊子が出席者に配布された。
 報恩碑の碑文は、八戸中学校長従六位、佐々木新七がつくり、文字は八戸藩士女鹿左織が書いている。鎮衛はその冬、老衰のため大正14年12月9日に世を去った。妻ふさは昭和12年12月3日、81歳で亡くなっている。子供は友彦、すえ、さだ、すぐ、きよ、好彦、とみの七人。長男友彦は、株式会社十和田観光電鉄創設の協力者で、昭和14年9月、青森県会議員を勤める。二男好彦は戦後、東京の大同印刷の社長を勤めた。

報恩碑
報恩碑

報恩に報いるために

 現在は、西越に住んで墓守りをしていた井関友美も亡くなり、家も現在はなく、報恩碑は移設され道路脇にひっそりと立っている。
 西越地域には、読み書きのできる人は殆どいなかった。会津から移住した井関父子は、寺子屋からはじめ、付近の子弟に学問の道を開いた。井関鎮衛が教育の啓蒙に精進したかいあって、その後の野沢村の中心人物として活躍した人々の大部分は、井関鎮衛先生の門下生であったという。
 碑は今でも村人を見つめている。西越の人々は胆に命じ、今後も教育の灯火を消すことなく、後世に残していくことが、まさしく先生への報恩の証となることであろう。


〈参考文献〉 
  流れる五戸川 三浦榮一 著
  新郷村史