斗南藩の歴史(13)大庭恒次郎    

右が勇介、右2番目後ろが恒次郎、左端が白虎隊士 林八十治の弟                     (明治32年)
右が勇介、右2番目後ろが恒次郎、左端が白虎隊士 林八十治の弟 (明治32年)

斗南藩歴史研究会 大庭紀元

 

大庭 恒次郎
  
 明治3年11月5日、父勇助と共に三戸入りした。明治6年7月31日、三戸小学校開校と同時に八歳で入学した。恒次郎は常に「一」に縁がある。全て学校の入学・卒業が1期生である。明治20年3月青森師範学校卒業、同4月1日から三戸尋常小学校兼高等小学校訓導となる。明治32年4月から青森県属となり、東津軽郡視学(青森市)を6年。
三戸町長を短期間。後三戸郡視学(八戸市)として13年余り勤めた後、三戸尋常小学校長兼三戸女子実業補修学校長兼三戸町農商業補修学校長を六年勤めて退職した。勤務校は三戸小のみである。
 恒次郎は明治の学制と共に歩んだ。明治の学校教育を自ら体験し、又教育者として、両者の立場で公教育を記録した。三戸書籍館目録や、これからの人材育成の為に、英語を加えた教育課程を組み私学論などを書いた。大町桂月より25年前に十和田紀行を書いた。その中で、一般人の多くは知育偏重であると警鐘をならしている。体操場建設や学校行事に遠足を加えたのもその為である。城麓樵夫・東奥散士・尾州・桐蔭生・恒城などのペンネームで多くの記録を残した。

斗南移住の第一陣は三戸へ 

 東京謹慎組の斗南藩士約300名は、明治3年4月17日海路品川を出帆して、19日に八戸に上陸し、翌20日に三戸入りしている。(石井家萬日記)明治3年4月18日に三戸代官所で斗南藩に領地引継ぎが行われたのである。この一行が品川を出航したのが前日の17日であるから、斗南移住の第一陣は三戸に入ったのではないかと推測される。
 「青森県の教育者をたずねて」渡部虎次郎の稿に、虎次郎も父織之助とともにその翌日20に三戸入りしていると記述がある。東京からの一団は三戸に着いたのである。山国会津の人々なので船に乗ることはおろか海を見るのも初めての者もあったろうから船酔いに苦しめられたと思われる。しかし、陸路に比べれば数日の航海であり、食料も心配なかった。もともと勤皇の志が厚かった会津人に朝敵の汚名を着せて、逆境の地に追いやるのだから、新政府側にも良心の呵責があったのか、アメリカの外輪蒸気船を主力とする外国船をチャーターしてくれたのである。

東・西回り航路で 

 会津や高田から新潟へ出て汽船で野辺地について、それから五戸・三戸へときた、西回りの人は多かった。または仙台へ出て、東回り航路をとって八戸へ上陸し三戸にきた人もある。新潟や仙台から乗船する者は、そこまで歩かなければならなかったのであり、陸路をたどった者たちとはくらべものにならないが、難儀したにちがいない。

陸路組

 仙台領から旧南部領、当時黒羽藩の支配下にあった三戸を目指して北上した。「会津・斗南藩史」によれば、陸路のみをたどって斗南へ移住する会津人たちに指令が出たのは晩秋であったから、北遷は悲劇であった。斗南藩では、陸路をたどる者に対して移転の際、旅籠代は後に藩が一括して支払うことを条件に、各自に1枚12銭5厘の宿札を多数持参させた。だが前年が大凶作だったため、米価が高騰する一方であり、しかも確実に支払うという保証のない宿札だったので、宿泊に難色を示す旅籠が多かった。盛岡では粥ををすすることを条件にようやく泊めてもらった1団もある。日に3・4回ワラジを取り替え、みぞれにたたかれても着替えなく空腹を抱え、黙々と斗南を目指して歩をすすめたのである。

今も大庭家に残っている記録溜
今も大庭家に残っている記録溜

斗南移住の最終組も三戸へ

 会津・斗南藩関係年表「北の慟哭」(葛西富夫書)によれば、明治3年10月2日、この日までに旧会津藩士の「会津払い」が終わる。斗南藩領への移住が10月いっぱいで一応終了となっている。
 明治3年10月19日に一行63名が会津若松を出発し、17日間をかけて三戸に移住した記録がある。大庭氏「記事留」。このあと、会津若松から病気のまま病院から陸路出発した109人があったと伝えられるが、仙台までの途中で死亡した者がかなりおり、斗南まで辿り着いた記録もない。とすれば、この一行は斗南への移住の最終組ではないかと推測できる。

大庭勇助一行

 私の曾祖父、大庭勇助(当時44才)は、妻こよ42才、母さき67才、と共に、11才の長女よし(三戸移住後、白虎隊で自刃した林八十治の弟林茂樹に嫁ぐ)6才の長男恒次郎を伴って苦難の旅路についたのが明治3年10月19日であった。(最終組)
 戊辰戦争では青竜隊に属し猪苗代で戦った。戦後越後高田藩に収容されたことは、「高田道行」や「戊辰雑記」が残っているので分かる。高田組の半数は政府差し回しの船で新潟から野辺地に向かったと言うが、勇助はなぜその航路にしなかったのかは不明である。
 勇助は一旦若松へもどり、旧知行地の処分を済ませ、同行の一団63人と斗南の地を目指した。大庭氏「記事留」にある陸行道中計画、同行63名の戸主名と家族の数、現在も会計簿等が残っている。この集団の取締(団長)は赤井伴助、大庭勇助は一手御払い方、つまり手形、旅費、現金等の取り扱い責任者であった。

 

明治6年から現在も引継がれている沿革誌 青森県教育史の基礎資料となった
明治6年から現在も引継がれている沿革誌 青森県教育史の基礎資料となった

斗南藩の教育

 北辺の地に移され、日々の食生活にさえ事欠く移住者達は、次の世代を生きる子弟に望みを託し、教育には特に力を注いだ。
 斗南藩施策の一つとして、いち早く明治3年9月には学校掛を設置した。藩祖保科正之以来「人材を養い国器となさしむ」の精神は脈々と受け継がれたのである。
 斗南移住の際に会津日新館の蔵書のほとんどを田名部(むつ市)に移し、斗南日新館の学則を定めて開校した。田名部町民の入学も許可した。斗南領内は広い。寮に入って本校で勉強するには藩財政からしても不可能であった。そこで、藩では領内各地に郷学校(支館)を設けて「漢学校」とし、全領内の子弟にあまねく教育の機会を与えた。日新館の教育は高等学校や大学の教育機関に相当する。


斗南日新館の開校
 
 三戸町では日新館支館の開校と合わせ、会津日新館の医学師範であった杉原凱の来三も影響して教育のより一層の隆盛をみた。明治五年には斗南学校が開設され、翌六年三月には旧斗南藩士上島良蔵を招いて三戸義塾を開設する。(三戸小学校沿革誌)長く地域の教育発展の原動力となった。このような動きはやがて三戸町内に米田謙斎の暇習塾・村木晋三の三戸英学校の設立、さらに明治八年の三戸書籍縦覧所(のち三戸書籍館)の開設へと高い文教のいぶきとなってあらわれた、と葛西富夫氏は書いている。
 さて、三戸の漢学校は何処に開設されたのだろうか。三戸会津会の総会は明治以来毎回悟真寺で開催された。招魂碑を悟真寺に建立したこと。例年悟真寺に於いて招魂祭が執り行なわれていたこと。斗南藩士の墓地が目につく。以上のことに地理的条件を考え合わせてみると、悟真寺がそれにあたると推測される。問い合わせたが、火事のため資料は残っていない。

 

馬淵川教育の源流   
教員への道

 会津藩では、家督相続を願い出ても、文武の心得の無い者は、強制的に再教育機関(小普請組)に入れられ、文武の試験に合格した後、許可された。日新館教育と相まって会津人の平均的教養は相当高かった。明治五年学制が発布され、翌六年には青森県下に24校の公立小学校が設立された。赤貧の生活を強いられていた斗南藩士は進んで教員の道に身を投じた。自活の道が開けるすばらしいことであった。斗南領内の小学校の場合は、斗南藩士とその子弟が多く、さらに、明治14年12月に初等師範学校令が公布された。青森県師範学校(官費制)が開設された。経済的に困窮し、教育熱心な藩士の子弟には最高の制度であった。
 三戸小学校の歴代校長のうち、2代大石友二郎(七戸小学校長も)・3代渡部寅次郎・7代戸狩嘉津治・9代大庭恒次郎・13代井口信雄・14代田島信雄(旧姓星野)・16代大庭茂以上7名が斗南藩士の子孫であり、本県教育に大きな影響を与えた、いわゆる「馬淵川教育」の源流となった人々である。