斗南藩の歴史(21)三戸三碑

我が国最古の「白虎隊の墓」
我が国最古の「白虎隊の墓」

               斗南藩歴史研究会 渡部昭治

 

1.わが国最古の白虎隊の墓

 観福寺 

 青森県三戸郡三戸町同心町熊ノ林6−2


 白虎隊の墓は、西軍の命により飯盛山に建立されず、ようやく明治23年になって建立され、大正15年に再建現在に至っている。これより前、三戸に移住し た斗南藩士大竹秀蔵によって明治4年正月13日に三戸町観福寺に建立されている。この墓は長い間誰にも気づかれずにいたが、昭和25年当時の観福寺住職高 杉竜眼氏によって発見され、昭和51年顕彰会の手によって整備され、傍らに由来の碑が建立された。
 この墓碑には誤記がある。記載を欠く者3名、林八十治、津田捨蔵、津川喜代美、蘇生者飯沼貞吉を自刃者として記載。慶応四年(1868)8月飯盛山上の 少年(16〜17歳)の屍はカラス野犬にさらされ、土地の者見かねて埋葬し、官軍に発見されて捕らえられるという状況、況んや当時墓標を立てることは許さ れず。明治14年(1881)飯盛山上に一基の石碑建つ。23年飯沼の語るところによって自刃の詳細明らかとなり、初めて19士銘々の墓碑建立。大正15 年再建。

墓を建立した大竹秀蔵  
 旧会津藩士、明治4年1月13日三戸へ移住、早々に白虎隊の墓を建立。当時30余歳。
 一生を独身で通した秀蔵の晩年は三戸元木平某家において死去したともいわれ、一説に「俺は死ぬときは五戸の親戚にいって死ぬ」と言って、長々お世話になったお礼にと刀3振を若庄小笠原家においていったという。

会津藩士戊辰殉難者招魂碑
会津藩士戊辰殉難者招魂碑

              斗南藩歴史研究会 大庭紀元

 

2.会津藩士戊辰殉難者招魂碑
 悟真寺

 三戸町同心町55(通称博労町)

 この碑は本堂に向かって右手中央に建っている。建立は明治27年8月23日。建立者は旧会津藩士(斗南藩士)三戸移住者一同。碑文横書きの題字は松 平容大(かたはる・斗南藩主)。撰は南摩綱紀(旧藩士・等師範学校教授)書は渡部重(じゅうしん・旧藩士・本名は虎次郎)建立当時は本堂の左脇にあった が、現在地に移築された。
 時あたかも日清戦争勃発という時、三戸地方に残留した旧会津藩士達が、常日頃心にかけていた戊辰戦争で戦死した多くの家族、親戚、同胞たちの慰霊のため招魂碑建立を思い立った。
 戊辰戦争戦死者数2,977人(会津殉難者名簿)鳥羽伏見の戦いから会津鶴ケ城開城までの九ヶ月間の戦死者、その他、斗南移住の途中並びに直後の 死者、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱及び思案橋事件、西南の役など明治維新の会津殉難者およそ5千人。この数は日清戦争の戦死者以上という。

建碑日記
 
 明治27年4月29日、悟真寺で開かれた会津会総会で招魂碑を悟真寺に建立し、27回忌弔祭を行うことが決まった。建碑委員6名を選挙で決めた。 委員長 渡部乕次郎、委員 鈴木林助・小林丈八・佐藤締助・和田鉄次郎・大庭恒次郎である。私の知るところでは、以上6名の内3名の子孫が生存する。渡部 昭治(八戸市)鈴木 聰(南部町)大庭紀元(三戸町)この3名は奇しくも南部町立南部中学校長を勤めた。大庭恒次郎が書いた建碑日記が残っている。総会、 委員会、会計、作業状況、最後の27回忌祭文まで詳分を記す。

 

  台石、竿石の2個は城山のものを40銭で払い下げを受けた。石材運搬を金8円で諏訪孫吉に請け負わせた。人夫30人。石の重量8百貫あまり、板を敷き、コ ロを用い、綱で引き、「ベゴの鼻」から桐萩に落とした。12時すぎ労酒5升を出す。石が重くてどうするかの相談でこの日は終わる。翌日、三戸在住の旧会津 人を招集、20人ほど手伝いに集まる。苦労の末、悟真寺についたのが午後七時、そこで労酒5升。手伝いも5升。住職の間宮俊冏(しゅんけい)氏が一句。   

 

 「みなともに后生(極楽往生、五升にかける)願えり樽枕」

旧藩士達の団結と心意気が生き生きと書かれている。

会津藩殉難者無縁塔
会津藩殉難者無縁塔

 

3.会津藩殉難者無縁塔
 三戸大神宮

 三戸町同心町諏訪内46

 昭和51年、三戸三碑修理顕彰会が前出の杉原凱先生の墓の作業中、墓の周りからおびただしい数の人骨がでてきた。三戸町石井家の「萬日記」に、「死人 が多く、埋葬する場所にも困る状態」と記されてあり、当時の悲惨な状態を推察できる。顕彰会では、無縁化した人々の骨を一つ一つ洗い清めて1カ所に合同埋 葬し、その上に無縁塔を建立し冥福を祈った。