斗南藩の歴史(16)杉原 凱 日新館教授

日新館の杉原凱教授の墓
日新館の杉原凱教授の墓

      斗南藩歴史研究会 大庭紀元

 

杉原凱先生之墓


三戸町同心町諏訪内46 三戸大神宮

 境内神殿に向かって左奥に建っている。建立は明治19年初冬。建立者は沖津醇・渡部乕次郎等同門十余名。碑文の撰は沖津醇(青森県師範学校長・私立青湾学舎校主)。書は渡部(しん・道雲・第3代三戸小学校長)である。日新館で教えを受けた生徒が、凱先生没後15年を経て、馬の首筋の形に土を盛った塚の上に立派な墓碑を建立した。碑建立の資料が無いので同門10余名の氏名は不明である。
 杉原凱について沖津醇が墓碑の裏面に墓碑建立の文を書いている。その沖津醇が明治39年に書いた「近世会藩士人偉行録並補遺」(会津若松市立図書館蔵)に杉原外之助について記述がある。三戸の墓碑の記述と同じ内容なので口語訳にしたものを紹介する。
 「杉原外之助。号を凱と言う。安部井帽山(しょうざん)の門下に入る。経書史書の学問を成し遂げ、北学舎の長となる。後医学師範に転じ、公の仕事から身を引いた。自分の家におり経史の書物を城北に住む者に教授した。多くの者はその門下に入った。乱後城北の塩川に住む。大学の助教となる。明治3年陸奥三戸に移り住む。四年に病没す。66歳であった。三戸神明宮の傍らに埋葬した。
・・・・中段略・・・・その声と姿形は忘れてはならない」と。
 右の文中に「北学舎の長となる」とあるが、三戸の碑では「学館長」となっている。この学館長を日新館の館長と読み取っている書物もあるが、藩校日新館には館長という役職名はなかった。南北に素読所が置かれ、預役一名に手伝い役三名で構成さされていた。杉原凱は北素読所預役であった。素読所を学館と称した一時期があったので「学館長」となったのであろう。(会津藩教育考巻五)
 杉原凱については三戸大神宮の禰宜、山崎貴行氏から資料の提供をいただいた。

墓碑の裏面
墓碑の裏面
日新館 杉原凱教授の墓がある三戸大神宮
日新館 杉原凱教授の墓がある三戸大神宮

日新館と白虎隊

 「藩祖保科正之は、学問奨励のため、諸国から学者を招くとともに、自らは四代将軍家綱の補佐役として講義をした。藩校日新館の前身ともいえる、日本最古 の教育施設『稽古堂』ができたのは、この時代。2代正経のときには藩の学問所『郭内講所』が設けられた。5代藩主の時、「教育は百年の計にして会津藩の興 隆は人材の養成にあり」とした家老の建言により、学制の改革に取り組んだ。1803年(享和3年)完成。日新館は孔子を祀る大成殿を中心に、文武の教場が 並び、医学や天文学までも教えた学問の殿堂。藩士の子弟は十歳になると「素読所」(小学)に入る。試験で進級講釈所」(大学)で学んだ。
 鳥羽伏見の戦いの後,会津藩は軍制をフランス式とした。そして,玄武隊・青龍隊・朱雀隊・白虎隊の4隊を編成した。白虎隊は,日新館で学んでいた16~17歳の少年達で編成され,主に城中の警護にあたった。
 戊辰戦争が始まり,戦場が会津に移り,1868年8月22日には,藩主松平容保は白虎隊に出陣命令を下した。日新館は閉鎖され,臨時病院となった。戸ノ 口の戦いで敗れた白虎士中二番隊は,炎に包まれた鶴ケ城を眺めながら飯盛山で壮烈な最期を遂げた。 (日新館ガイドブック参照)

 当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了 した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関で あると言える。1868年(慶応4年)、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。

【参考文献】wikipedia 大辞典