斗南藩の歴史(6)娘子隊(じょうしたい) 中野優子の墓

八戸市にある蒲生家の墓
八戸市にある蒲生家の墓

             斗南藩歴史研究会 山本光一 

 

 八戸市の漁港を見下ろす標高約27メートルの小高い丘に館鼻公園がある。その公園に隣接した墓地があり、入口近くに会津藩の娘子隊と後に呼ばれた隊の一人、中野優子と、その夫で新選組にも一時属した会津藩士で蒲生誠一郎(山浦鉄四郎)の墓がある。また、12年間に渡り八戸市の基礎をつくった元斗南藩士の末裔・神田重雄八戸市長の墓もある。 ここは「御前神社」(みさきじんじゃ)の神葬墓地だが、御前神社の本殿は移転して、墓地だけがひっそりと残されている。


 山浦鉄四郎は、戊辰の際は8月23日の籠城の日、負傷の為、城中にあったが、天神橋口手薄の為、数名の壮士と奔走し出撃、敵陣の中を走り抜け、西出丸より城に引揚げるなど活躍した人物である。戊辰後は、蒲生誠一郎と名前を変え、斗南へ来て明治4年に中野優子と結婚。函館に住み函館にて明治12年没した。


 中野優子は会津藩士中野平内の娘で、戊辰時16歳。姉竹子22歳と、母孝子44歳と共に(後に娘子隊と呼ばれる)涙橋にて戦い、姉竹子は戦死。優子は母と共に入城し、籠城戦に活躍。明治4年に蒲生誠一郎と結婚し、昭和6年に79歳にて没した。

涙橋での戦い

 優子は中野竹子の妹で、この時16歳であった。慶応4年8月23日の西軍城下殺到の日、母孝子、姉竹子、そして優子の中野家の婦女子たちはかねてからの決意通り、各自髪を結根より三寸ほどに切り落し、白鉢巻に白襷(たすき)をかけ、日頃稽古に用いていた義経袴を着用したが、このときのいでたちは、母は濃浅黄の縮緬(ちりめん)、姉は紫の縮緬、優子は淡浅黄の縮緬で袖は何れも1尺5寸位。袴の色は母が淡浅黄、姉が濃浅黄で優子は蝦茶であったという。
 照姫様護衛の任に当たろうと3人は薙刀を小脇にかかえて城門に駆けつけたが、既に門は鎖されていて内に入れなかった。そのうちに同じく入城できなかった依田マキ・菊子姉妹、岡村コマと出会い集まっていた所、城中より来た武士から「照姫様は既に坂下にお立退きになった」と聞いて、一同は照姫様を護衛し機会をみて戦闘に参加しようと相談し、直ちに坂下に向った。だが、これは誤報であった事がわかり、翌日坂下の会津藩軍事方の萱野権兵衛を訪ね従軍を志願した。
 これは軍事方にとっては甚だ迷惑なことで「婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩の武士の名折れ」とか「鉄砲に薙刀では戦争にならない」とか言って、彼女らを諦めさせようとした。だが女子の中には「お許しがなければこの場を借りて自害する」などと言い出す者もあり、やむなく「あす古屋作左衛門の率いる衝鋒隊(旧幕府歩兵)が若松へ向って進撃するので、それに従軍してもよい」と承認された。
 翌25日、衝鋒隊・会津兵に長岡の援兵を加えた4百名ばかりの一隊に従って優子たち婦女子も出発した。坂下より高久を経て、城下の西端柳橋(涙橋)付近まで来た所で長州・大垣藩の兵と遭遇し戦闘になった。婦女子一同も薙刀を振るって奮戦したが、味方の勢はしだいに死傷者が続出して、姉の竹子も額に弾丸を受けて倒れた。

優子の回想から

 「わらわ共の戦場は、よく判りません。実際あの時は子供心にも少しは殺気立って居ましたし、にっくき敵兵と思ふ一念のみで、敵にばかり気をとられ、何処にどんな地物があって、どんな地形であったかなどといふ事は少しも念頭に残って居りません。ただ柳土堤に敵多勢居ってさかんに鉄砲を撃ち、味方も之に向ってしきりに撃ち合ひましたが、なかなからちあかないので、一同まっしぐらに斬込んだ事は覚えて居ります。其時俄然砲声が敵の後方に起ると、敵は浮足立ちて動揺を始めたので、このときだと味方は一層猛烈に斬込み、婦人方もこの中に交って戦ひました。わらわは母の近くにて少しは敵を斬ったと思ひますが、姉がヤラレタといふので、母と共に敵を薙ぎ払いつつ漸く姉に近づき介錯をしましたが、うるさき敵兵ども、喧々囂々とますます群がりたかるので母と共に漸く一方を斬り開き、戦線外に出ました。この時農兵の人がわらわと共に一緒に戦って坂下に帰る途中は首を持って呉れたと記憶して居ます。さかんに斬合った場所は、乾田で橋の東北方六丁位離れ湯川によった所の様に思はれます」
   

竹子の像(会津若松)
竹子の像(会津若松)

竹子の辞世

 慶応4年8月25日、衝鋒隊に長岡の援兵を加えた四百ばかりの一隊は、午前十時頃、坂下より高久を経て柳橋へと進んだところで、長州・大垣藩の兵と遭遇 した。かくて婦女子一同も薙刀を振るって奮戦していると「あれは女だ、生捕りにしろ!」という敵の隊長らしき者の声。そこでお互いに「生捕りの恥辱を受け てはなりませぬぞ」と励まし合いながら戦ううちに、竹子の額に敵弾が命中した。竹子は妹の優子を呼び「敵に首級を渡したくない」と言って介錯を頼んだ。優 子は激戦の中をようやく竹子のもとにたどりつき、農兵の手を借り無事介錯はしたものの、やがて薩・土両藩の兵が援軍に駆けつけ、味方の兵はついに高久へと 退却を余儀なくされた。
 このとき竹子の薙刀の柄には
 「ものゝふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」
の辞世をしたためた短冊が結びつけてあったという。戦死地跡には「中野竹子殉節の碑」が建てられており、墓は会津坂下町法界寺の本堂前にある。
 
誠一郎・優子の墓を建立

 優子は長生きし、昭和6年に79歳にて没しているが、函館に蒲生誠一郎(山浦鉄四郎)と暮らしていたのに何故八戸の地に墓があるのであろうか。おそらく 隣りに山浦家の墓があること、墓の裏面に二人の名が一緒に刻まれていることから、蒲生誠一郎・優子が没した後に、山浦家に引き取られ、この地に蒲生家の墓 を山浦家で建立したものと推測される。

 

 

【参考文献】

『会津戊辰戦争』平石弁蔵著
『幕末維新人名事典』新人物往来社