斗南藩の歴史(14)井口信雄    

井口信雄
井口信雄

           斗南藩歴史研究会 大庭紀元

井口 信雄

 斗南藩士の父常四郎の三男として、岩手県二戸郡金田一村釜坂で、明治26年3月に出生。戸籍は三戸町となっているが、生活圏は釜坂であった。釜澤小学校卒業後、三戸小高等科に進んだ。大正2年3月青森師範学校卒業と同時に田子小学校に赴任。以来30年同校に勤務し、大正14年以降校長を務めた。昭和17年から10年間は、三戸国民学校長兼三戸実家女学校長を勤めた後、三戸町教育長を6年間、計46年間学校教育に携わった。
 当時芦田恵之助氏を中心とする教授法は全国に広まり、井口信雄はこの会の四天王と称された。広く三戸地方に研修の機会を与え、地域全体が教育に燃えた。先生は馬淵川教育の本流である。子ども一人一人のものの見方、考え方、体験をとおして心を培う教育そのものであった。三戸小学校に赴任して、子どもたちのひ弱さに愕然とし「千遍詣」を提言した。子どもたちは、昼休み、放課後あるいは日曜日に糠部神社に詣でた。戦中戦後の激動の数年間、三戸小で大庭茂が教頭として仕えたが、お互いに斗南藩のことは一度も話さなかったと云う。
 井口家の家系を、平成16年に澤口豊氏(元田子町教育長)がまとめられた。家系には歴史的人物が多い。

みわ夫人と畑で
みわ夫人と畑で

                澤口 豊(田子町在住)

 

 井口信雄は、生まれは明治26年2月20日で、当時岩手県二戸郡金田一村釜沢であった。俗にいう舌崎である。 戸籍は青森県の三戸町大字八日町35番地となっているが、これは現在の八日町「松兼菓子店」の番地である。移住後、井口一族はしばらく当時の松尾宗五郎宅に身を寄せ、世話になったためで、人 情が偲ばれることである。また、子供の将来のために、小学校高等科のあったこの地を選んだとも考えられる。実際の生活圏は釜沢を中心に三戸地方だったとい う。

井口家は絶えた
   
 井口信雄は、田子小学校第十八代校長であり、私たちもその末期の生徒であるが、自ら家柄を語る人ではなかった。井口信雄没後、「回想の井口信雄・道ひと すじ」が編まれたが、寄稿した約百名の誰も井口信雄の家系について触れていない。井口信雄没後、みわ夫人は後を追うように亡くなり、井口利盛も信雄に先立 つこと1ヵ月でこの世を去った。井口信雄の後継者も決まらず、井口家は絶えてしまった。

井口家の祖先

 井口信雄は、幕末に会津からこの地の斗南藩に移住した会津武士の子である。
 井口家の祖先は甲斐武田の武士。京極家の家臣となっていた国人で、領主をしていた。浅井長政の母は井口家出身の姫である。武田軍においては工兵隊長をしていたこともある。
 井口信雄の祖父井口隼人は第六代当主。家紋は丸に武田菱。会津藩においては御家老付外様士で安光流の刀術指南役をしていた。戊辰戦争時においては青龍隊 に所属している。また、隼人の妻みさの弟は、浅羽寛兵衛茂実の長男で、浅羽忠之助。戊辰戦争時、朝敵・賊軍ではないという証の「御宸翰」を大阪城から江戸 まで運んだ人物である。
 井口信雄の母みよの叔父手代木直右衛門は、会津藩主容保が京都守護職時その公用人として、朝廷、幕府、所司代諸藩の連絡調整を受持つ。京都の治安維持の任を帯び、藩士・見廻組・新選組・町奉行の諸役人たちと連絡を取りあい浪士の取締りをする。
 また、遠縁にあたる幕臣佐々木矢太夫(旗本8百石)の養子となった、手代木直右衛門の実弟佐々木只三郎は、会津藩京都守護職の見廻組の組頭として活躍。出羽の幕臣清川八郎、土佐藩士坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺を指揮した。
 井口信雄の叔父井口慎次郎は、明治9年10月29日、元斗南藩の小参事永岡久茂に従い、いわゆる思案橋事件に係わり、翌明治10年2月7日、東京市ヶ谷で処刑されている。
 井口家は歴史的変貌の重要な時期に関わりを持つ人々であった。私と井口信雄氏と係わりから知り得た範囲で井口家の人々を順に紹介していきたい。

井口利盛からの手紙
井口利盛からの手紙

家系が判明した手紙

 私がいただいた、井口信雄の借家にあった遺品の中に、昭和33年8月2日、北海道函館市に住まいしていた井口利盛(信雄の兄)から井口信雄・みわ宛てに送られた手紙あった。
 この手紙は12ページにわたる井口家の家系に係わるものであった。井口信雄は、家系を語ることはなかったが、この手紙と会津藩関連資料の裏付けによって初めて家系を知ることができた貴重な1通である。

井口利盛から弟信雄への手紙・家系について(抜粋)

 
 ・・・前略、中略。
 次に吾々の祖母「みさ」は、浅羽氏から来た人で、その弟は藩候の扈従役であった人。粗父隼人と共に越後高田藩にお預けとなり、祖父の腸チフスにて死亡し たことを報じて呉れた人。名は忠之助であったと思う(註 藩公容保が日光東照宮の宮司となった後も藩公とともに日光に従った。・・・筆者加筆)
 また、祖父隼人利成、2弟源吾利武、3弟留三郎利秀の母は多分小川氏よりと思うが、私三沢に11歳位のとき小川家は3人暮らし。父精一郎は三沢村長。身長六尺位。鬚は長岡外史将軍のプロペラ鬚以上の立派なもので、背後からも白い鬚が見えた程でした。
 母すま夫人、娘すてお(ひらがなか漢字かは不明)16歳位(後上北郡法奥村辺居住)・・・中略・・・留三郎叔父は三沢に行けば、必ず小川氏方に泊まるの で、私は叔父の母の実家と思っているのです。(今でも)これを思い出したのは、私の家の前に小川氏夫妻が住み・・・中略・・・太平洋戦争中一師団かに応 召、・・・中略・・・。
・・・それが山梨県とのこと。つまり甲斐出身らしい。会津武士の大部分は会津武田氏の元武士であったものが多く、私の家なども井口と称する処の領主で元は 武田井口に居りたるをも以て氏として居た。武田勝頼滅亡の時より少し前徳川に下った。母は信玄の姉、妻は信玄の長女という石田梅軒一家だけを除き、織田、 徳川の両家から盛んに捜索され滅亡させられたため、殆ど姓氏を変えており、松平氏に仕えるために井口としたのではないかとも考えられる。
 私の家の定紋は丸に武田菱、替紋は釘抜ということだ。釘抜は或る時期に於いて、井口の居た武田、即ち我家は誰かの時代、武田家の工兵隊長であったからと聞いたことがある。(祖母より)
  野田城を攻めて信玄銃弾にあたって、それが元で死んだとなっているが、野田城の陥落は隧道(註筆者 トンネル)を掘り、井戸水(城中の)を断った為、 城中より開城を申し出、信玄承諾しての落城とのこと。武田家の工兵隊は現代人の想像を遥かに超えて進歩していたもののようです。・・・後略。
昭和33年8月2日
          井口利盛  信雄様
 みわ様