斗南藩・八戸にゆかりの人々

斗南藩の歴史研究会 事務局長 山本 光一

 

 

 

 明治3年4月18日、斗南に移住する者の第一陣として小参事・倉沢平治右衛門の指揮のもと、明治3年4月19日に八戸に上陸し、翌日の20日に三戸に着いている。(三戸・石井家の万日記)そして最初の代官所は現在の五戸町に置いた。

 

 第一陣の一人、旧会津藩士・渡部虎次郎は、漢字と槍剣に優れた文武両道の高名な書家であり教職家であった。虎次郎から三代目の渡辺昭治さんは、現在八戸市の旭ヶ丘に住まいしている。四代目の息子さんも現在青森県教育庁に勤務している教育一家である。

 

 廃藩置県の後、当地に留まった者では、明治5年(1872年)に小参事であった広澤安任が日本初の洋式牧場を開設したほか、日新館教育を受けた優秀な武士たちは、入植先の戸長・町村長・郵便局長・教育者になった者が多い。子孫からは、政治家として北村正哉(元青森県知事)をはじめ、小林眞(現八戸市長)、郡長・県会議員・市町村長などや多くの教育者が出ている。

 

 八戸市における斗南藩関連の史跡としては、海の見える舘鼻公園の「蒲生誠一郎・優子の墓」であろう。八戸市の漁港を見下ろす小高い丘に館鼻公園がある。その公園に隣接した一画に墓地があり、入口近くに新選組にも一時属した会津藩士で蒲生誠一郎の墓がある。これは、親戚であった小中野に住まいしていた山浦家が遺骨を引取り建立したものである。またその墓には、薙刀で戦う「娘子隊」(じょうしたい)の「武士の、猛きこころに、くらぶれば、数にも入らぬ、我が身ながらも」の辞世を残した隊長・中野竹子の妹、蒲生優子(旧姓・中野)も一緒に葬られている。

 

「娘子隊」は会津藩軍事方の萱野権兵衛を訪ね従軍を志願した。これは軍事方にとっては甚だ迷惑なことで「婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩の武士の名折れ」とか「鉄砲に薙刀では戦争にならない」とか言っ て、彼女らを諦めさせようとした。だが女子の中には「お許しがなければこの場を借りて自害する」などと言い出す者もあり、やむなく「あす古屋作左衛門の率いる衝鋒隊(旧幕府歩兵)が若松へ向って進撃するので、それに従軍してもよい」と承認された。

 

 中野優子は会津藩士中野平内の娘で、戊辰戦争の時16歳。姉竹子22歳と、母孝子44歳と共に涙橋にて戦い、姉竹子は鉄砲で撃たれ戦死。優子は辱めを受けないよう、他の兵に手伝ってもらい姉竹子の首を切り落とし持ち帰る。母と共に入城し、籠城戦に活躍した人物。

 

 さらにその並びには、12年間に渡り八戸市の基礎をつくった元斗南藩士の末裔・神田重雄八戸市長の墓もある。湊町に住まいしていた神田重雄宅には、当時三沢の谷地頭にいた広澤安任がよく訪ねて来ていたという。

 

 山浦鉄四郎(蒲生誠一郎)は、戊辰の際は8月23日の籠城の日、負傷の為、城中にあったが、天神橋付近が手薄の為、数名の藩士と奔走し出撃、敵陣の中を走り抜け、西出丸より城に引揚げるなど活躍した人物である。戊辰戦争後は、蒲生誠一郎と名前を変え、斗南へ来て明治4年に中野優子と結婚。函館に住み函館にて明治12年没(享年36歳)した。

 

 

 

 優子は、昭和6年に79歳にて没し、八戸村小中野に住まいしていた山浦家に引取られた。また小中野には元斗南藩士が住まいしていた長屋もあったが、いまはその痕跡もとどめていない。 

 

 

  また、八戸市に住まいしていた旧会津藩士として、池上三郎・四郎の兄弟がいる。池上四郎は、戊辰戦争のときは12歳で、明治3年に兄三郎と共に八戸の山奥に移住した。食糧も衣類もない悲惨な生活であった。父武輔は常に「お前達は故郷の安部井先生や高津先生が日新舘で説かれたことを基に勉強するのだ。武士の道は刻苦、忍耐と魂の錬磨である」と訓育したという。
 四郎は、横浜正金銀行の柳谷卯三郎の書生となり、便所掃除、風呂焚きをして警視庁巡査となった。44歳のとき、大阪府警察部長となり、大正2年、大阪市 長に推され三期10年勤め、不世出の市長といわれた。四郎は、市長時代に斗南藩領を再訪し、移住者の子孫の家で池上姓の刻印のある鍬を発見した。四郎はこれを譲ってもらい、長く家宝とした。「菜根を咬み得ば万事なすべし」という言葉を忘れずに人生の指標にしたと云う。

 

 その後朝鮮総督府の政務総監を勤めたが、昭和四年73歳の生涯を閉じた。大阪の天王寺公園には「前大阪市長池上四郎君之像」という高さ20.6メートルもある銅像がたっているこれは当時日本一の人物像だと云われている。尚、兄三郎は函館控訴院検事長をつとめている。