「斗南藩の歴史」 (2)西郷頼母・四郎

 青森県十和田市の伝法寺に、会津藩家老の西郷頼母と講道館の四天王と呼ばれた西郷四郎(姿三四郎のモデル)がいた史実を知ることができた。日本の時代の流れを変えたこの2人の人物の足どりを追ってみた。

                             斗南藩歴史研究会 山本光一

 

戊辰戦争の終結

 会津では「戦争に負けた」とは、戊辰戦争で薩長(新政府軍)に敗れたことをいう。第2次世界大戦で敗れたことではない。この敗戦ほど会津人にとって痛恨と怨念に満ちたものはない。130年がたった今でも、この悔しさをぬぐい去ることはできないだろう。
 明治は、倒幕の実現によって誕生した。その後、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」という政策により、軍国主義の道を歩み始めた。こうしてこの100年 間で幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出した。日本の悲劇は幕府を倒したときから始まっていたのではないだろうか。

西郷頼母 天保元年〜明治36年 

 名は近悳(ちかのり)、初称は源蔵。家老・頼母近思の長男。家録千7百石を継いで家老となったが、藩主容保が京都守護職就任に際して「国力の及ばぬ事」を理由に強く反対したため、家老職を免じられた。
 以後5年間、長原村に閉居していたが、慶応4年に復職し、鳥羽・伏見の戦いに敗れて会津に帰ってきた容保に、和議恭順謝罪すべき旨を進言した。しかし、 主戦論をくつがえすことはできず、やむなく総督として白河方面に従軍して抗戦した。白河城が陥落すると若松に戻り、再び講和のために和議恭順説を主張した ため、主戦派から城を追われるかたちとなった。しかし頼母は、主君容保の汚名をそそがんとして米沢から仙台に至り、さらに函館の五綾郭で西軍と最後まで 戦った。降伏後、館林藩に幽閉されたが明治三年に赦され、青森県に移住(斗南藩)したが西郷家は御取潰しとなり保科近悳(ほしなちかのり)として、現在の 十和田市伝法寺に在籍した。明治14年の旧斗南藩人名録には、東京寄留(明治8年10月)となっている。
 明治13年には容保が宮司となった日光東照宮の神職をつとめ、20年に若松に帰ってきた。明治36年4月28日に亡くなっている。74歳。

武家屋敷(会津若松市)
武家屋敷(会津若松市)

西郷頼母一族の悲惨な最期

 頼母は、藩内の主戦論派に押し切られ、登城差止め蟄居(ちっきょ)となっていたが、政府軍が城下に侵入して来たいま、蟄居の身だからといって傍観してもいられず、禁を犯して登城していった。蟄居であるがため家族は城に入るわけにもいかず自刃の道を選ぶしかなかった。
 頼母を見送った妻千重子は、まず長女田鶴子(9歳)を引き寄せて胸を刺し、さらに2歳の嬰児を心を鬼にしてこれも刺し殺した。そしてみずからも「なよ竹の風にまかする身ながらもたわわぬ節はありとこそきけ」との辞世を残して、咽喉を突いて自刃した。義妹の眉寿子、その妹由布子、末妹の瀑布子らがそれぞれ咽喉を突いて自刃した。こうして親類まで含めた西郷一族21人が悲壮な最期を遂げた。直後に、政府軍の土佐藩士中島信行らが邸内に突入してきた。だが、この無惨な有り様に呆然となった。このとき、若い娘が一人、まだ死にきれずに頭をもたげ、「敵か味方か」と問うた。中島は思わず「味方だ」と言うと、手にした懐剣を差し出した。介錯を頼む様子である。そこで中島は娘の首を刎ねて立ち去ったという。

 

新斗南藩の消滅

 明治2年の藩籍奉還によって大名の領地は朝廷に返上されてはいたが、実態は藩知事と名を変えた藩主が旧領を治めていることに変わりがなかった。そこで政府は完全に封建制を破壊するために、廃藩置県を断行した。これによって青森県に存在していた弘前・黒石・七戸・八戸・斗南の諸藩はそれぞれ県に改められた。
 そして、藩と旧藩主を切り離すため、旧大名はすべて東京に召還された。斗南藩知事だった容大も東京に移住となった。このときの容大が斗南の人々との別れの挨拶をしたためた手紙が今でもむつ市に残っている。
 その後、9月4日に斗南藩は他の諸藩とともに弘前県に合併され、同月23日、さらに青森県と改称された。こうして斗南藩は、わずか1年数カ月にして消滅してしまった。

西郷四郎 慶応2年〜大正11年

 小説「姿三四郎」は、昭和17年に直木賞作家の富田常雄によって著された。近代日本の揺れ動く社会背景の中、主人公の三四郎が、伝統的な柔道界を、新し い技「山嵐」で活躍するストーリーは、ベストセラーとなった。巨匠黒沢明監督による映画も上映された。主人公の三四郎は、会津若松城下で生まれた西郷四郎 がモデルだった。四郎は、慶応2年会津藩士志田貞二郎の三男として生まれた。明治15年8月10日四郎は、代用教員を辞めて陸軍士官学校の予備校成城学校 へ入学するが、学力不足であったことなど、士官を断念せざるを得なかった。講道館(館長・嘉納治五郎)に入門する。四郎は小兵ながら天性の素質と激しい稽 古で頭角を表し、明治16年に講道館初段となる。

保科近悳(西郷頼母)の養子となる

 明治17年5月14日(十九歳のとき)、当時斗南藩として現在の青森県十和田市の伝法寺に戸籍のあった会津藩家老を勤めた元西郷頼母、後に保科近悳(ほ しなちかのり)の養子となり入籍、保科四郎となる。西郷頼母は、会津藩秘伝の大東流合気道柔術の継承者で、柔術の達人でもあった。講道館の四天王といわれ た志田四郎を大東流の継承者としてふさわしい人物と見込んだものと思われる。

 

警視庁武術大会での勝利

 明治19年講道館柔道が、その実力を知らしめたのは、武術日本一を決める警視庁武術大会での勝利であった。当時、警視庁は警察官に修得させるべき武術を選定せんとしていた。警視庁武術大会は、その選定資料とされる大切な試合であった。 
この武術大会に講道館代表として出場したのが、保科四郎である。当時、試合時間は30分という長丁場で、今日の国際的スポーツの柔道とは、全く異なり、むしろ果たし合いの様相であったという。 
 保科四郎は、得意の「山嵐」の技で、千葉方面で勢力を持っていた揚心流戸塚派の昭島太郎に勝った。ここで、講道館柔道は正式に、警察官必修科目として、 警視庁に採用されることになった。講道館5段になる。明治21年1月24日西郷家が再興となり保科四郎は、は、西郷四郎となる。明治22年(1889)、 西郷四郎は嘉納治五郎が文部省から海外視察に派遣された際には、講道館の師範代を務めた。西郷四郎の銅像の傍らに、嘉納治五郎の筆による「西郷四郎逝去の 地」の石碑が建っている。

西郷四郎

講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム 其ノ得意ノ技ニ於テハ 

幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出タルモノナシ 不幸病ニ罹リ他界セリト聞ク エン惜ニ堪エズ

依テ六段ヲ贈リ以テ其ノ功績ヲ表ス
 大正12年1月14日 
                                          講道館師範 嘉納治五郎



斗南への移住

 会津藩の新しい藩名は「斗南」と命名された。この命名には諸説があるが、「北斗以南皆帝州」から採られたというのが定説になっている。
 つまり、北にある北斗七星より南の土地は、すべて天皇の治める国土であり、我らも天皇の民である。というのだ。そして、明治3年4月から旧会津藩士とそ の家族の1万7千人の大移動が始まった。会津から青森県の斗南までは約590キロもある。東京から、越後高田から、そして会津から、海路や陸路を辿って彼らは北へ北へと向かった。政府から支給された路銀は乏しく、食うや食わずの苦しい旅だった。
 斗南の藩領は現在の下北半島と五戸郡・三戸郡だった。ふたつに分断された藩領の間に、南部の支藩である七戸藩と八戸藩が挟まっている。
 そしてようやく辿り着いた斗南で、彼らは初めて愕然とした。そこは表向きは3万石といっても、実質は7千5百石ほども見込めない不毛の地だった。御家再 興を許されたとはいっても、実態は会津藩そのものを流刑にしたに過ぎないことを、西郷らは思い知らされたにちがいない。

新天地での生活

 斗南藩庁は、とりあえず五戸の南部藩大官所があてられ、この9月、2歳の松平容大も会津から五戸に着いた。そして翌年4年2月、新たに藩庁となったむつ 市田名部にある円通寺に移った。新政府は諸藩の職制を改め、従来の家老に代わる大参事、小参事という役職を置くように指示していた。それに従い、新生の斗 南藩も職制を改め、山川浩が大参事、広沢安任(やすとう)・永岡久茂らが小参事に就任して、わずか2歳の容大を補佐して斗南藩政を指導していくことになっ た。西郷頼母は当時上北郡五戸の隣の伝法寺に住まいすることになる。