斗南藩の歴史(10)高雲寺住職大竹保順と与謝野鉄幹・晶子との交流

保順(左端)と鉄幹(右から2番目)・晶子(右から3番目)
保順(左端)と鉄幹(右から2番目)・晶子(右から3番目)

 斗南藩歴史研究会 山本光一

 

大竹保順(21世高雲寺住職)

  大竹保順は、大竹倉司・たけの長男倉太郎として慶応3年(1867年)会津で生まれた。会津藩が斗南藩となり青森への移住に伴い、明治3年には現在の三戸郡南部町の法光寺に奇留、その後八戸市の七崎にある真言宗・普賢院、明治9年には八幡の松田仙陸(神官)宅に寄留した。八戸市の新井田の伝昌寺の下内順法の弟子となる。その頃から保順と呼び、八戸の大慈寺に住んだ。
 保順は大慈寺の援助で東洋大学哲学科を卒業し、その後六戸村の鶴喰の月窓寺に1年つとめた。
 五戸の高雲寺の二十一世住職となったのは、前職の太田祖海が月窓寺九世を勤め、明治14年(1881年)12月高雲寺に移転、15年間勤め29年3月に亡くなった。その後任として保順が入山したのだった。
 この高雲寺には、斗南藩小参事・倉澤平治右衛門・元会津藩家老内藤介右衛門信節の墓がある。
 保順は、明治末期には与謝野鉄幹と親交が深く手紙のやりとりがあった。鉄幹は京都のお寺の息子だったので、保順とは出身校が同じで気も合ったという。
 大正14年春ころ鉄幹・晶子夫妻から長文の手紙が届いた。内容は雑誌「明星」の再刊を願う話し、五戸での揮毫会・講演などの計画や十和田湖遊草の旅のことが書かれてあった。
 そして、その年の9月21日に保順の家に泊まった。この頃俳諧人には有名であった与謝野鉄幹・晶子だったので,色紙1枚3円、短冊8円、講演会1回50円の謝礼が支払われたという。博労町の菊万の庭園では、町の有志が集まり記念撮影をしている。9月22日、十和田湖の奥入瀬渓流を歩き一泊して帰ってきているが、鉄幹は「みぞれが降り、寒くてぶるぶる震えてゆっくり見学もできなかった」と語っていたという。3日間滞在して24日に尻内駅(現在の八戸駅)から東北本線で青森経由で秋田に向った。その滞在中に詠んだという短歌の一部を紹介する。


与謝野鉄幹

秋に来て五戸町の夕月夜ひとつの坂に踊る声する


大寺の假の御堂のみほとけとたた一重なる我が旅寝かな


市場南部の馬の飼い草に掛けてかおれる秋萩の花


秋の風奥入瀬川を朝吹けり南部の馬のいななきを交ぜ


八戸の海をもすでに見る如し君に誘われし喜びの中

 鉄幹は、1900年(明治33年)「明星」を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。しかし、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視され、文壇照魔鏡なる怪文書で様々な誹謗中傷が仕立て上げられた。だが、晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻滝野と離別、1901年(明治34年)晶子と再婚し六男六女の子宝に恵まれた。鉄幹と離婚した滝野はのちに正富汪洋と再婚した。
 1901年8月、『みだれ髪』刊行。『みだれ髪』の名声は高く、『明星』における指標となり『明星』隆盛のきっかけとなった。
 次男与謝野秀は外交官として活躍。東京五輪事務長を歴任。秀の長男が衆議院議員与謝野馨である。

与謝野晶子

南部郷五戸の館の丘に立つ十和田の方に日の落ちるとて


長安へ続くさきにもあらずして寂し五戸の大路の柳


深山木を天につぎたる空にして重くうつせる奥入瀬の水

 晶子は、20歳ごろより仕事で店番をしつつ和歌をつくり投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、明治33年(1900年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚。子供を9人出産している。
 明治37年(1904年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。明治44年(1911年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。またフランスより帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。

大町桂月と与謝野晶子

 鉄幹・晶子が五戸に逗留した大正14年9月は、文学者大町桂月が蔦温泉で亡くなって3ヶ月後であった。桂月は蔦温泉をこよなく愛し、十和田湖・奥入瀬渓流を天下の名勝として世に知らしめた人物で、青森県にとってはなじみの深い人物であるが、明治37年、日露戦争真っただ中に晶子が「君死にたまふことなかれ」の詩を「明星」に発表するや否や、「太陽」誌上において桂月が強烈な批判を加えたことがきっかけとなり晶子に批判が殺到した。晶子27歳のときである。しかし、晶子は自説を曲げず動じることはなかったという。このときの「太陽」の編集長が五戸出身の鳥屋部春汀である。鳥屋部の下で桂月が客員記者として活躍していたときのことである。
 この「君死にたまふことなかれ」は日本の反戦詩第一号とされているが、最近はトルストイへの返歌であったとみなされている。日露戦争の最中、トルストイが「英タイムス」に発表した反戦論文は全世界に反響を呼び、各国の作家や学者が次々に同感の意を表明した。晶子の詩もその一つに位置づけられている。
 少し前、十和田湖の蔦温泉で桂月が亡くなったことを晶子が聞いたとしたら苦い思い出がよぎったに違いない。


保順の長女ことの話し
 保順・ハナ夫妻には、こと・ていの二人の娘があった。昭和に入って、ていは与謝野晶子宅に下宿しながら小石川高等女学校に通った。女学校時代の保証人は晶子、一回授業料がおくれ、支払っていないので直接呼び出しを受けてしかられたこともあったという。ていは、35歳で他界している。
長女ことは、父保順の思い出をこう語っている。

 「大正から昭和にかけて年に一回、会津藩の人々が高雲寺に集まって供養追悼会を開いていたが、いつの頃から会合がなくなったようです」「父が短歌を始めたのは晶子の影響によるようで、俳句は祖海和尚の手ほどきによるといわれています」「父は絶対に金を使わなかったので、青森に行ったとき弁当の買い方を知らないで笑われました」「一日に五十銭使って便所に押し込められ諭されたこともあったようです」「魚は一切食べなかったので、魚屋は全然こなかったとおもっています」と言うように、保順は世間に慣れていない人物でもあったようだ。
 ことは昭和の末期、東京の養老院で亡くなっている。

    ※参考文献
    ◯流れる五戸川 三浦栄一 著
    ○記念碑建立に当たって
     「鉄幹・晶子と保順和尚」  宮  一雄