斗南藩の歴史(5) 倉澤平治右衛門

             斗南藩歴史研究会 山本光一

 

倉澤平治右衛門 重為


 明治5年1月19日に斗南県貫属の人口調査が行なわれている。これによると、倉澤平治右衛門の住所は五戸の中ノ沢番外地5となっており家族12名で住居している。
 倉澤は、明治初期から中期にかけて中ノ沢塾を開いて青少年教育に努めた。旧会津藩士で学校御目付の禄高400石、大目付、常詰軍事奉行などを勤めたが、会津降伏後、斗南移住総取締、世話役をしたほか、廃藩置県で藩士やその家族が若松や東京に帰っても、五戸に永住し、数100人の若者達に人間の生き方を教えててくれた教育者でもある。長男の弥太郎は明治5年に東京に行っている。7年5月7日に母とせ(73)が死亡。続いて父自閉(81)は8年7月12日他界し五戸の高雲寺西側の共同墓地に眠っている。
 倉澤平治右衛門の妻よね(天保9年8月11日生まれ・明治24年7月26日没・墓は五戸の高雲寺)は、諏訪伊助(戊辰戦争の年、藩主容保に抜擢され家老職につく)長女である。また、伊助の娘が日本最古の白虎隊の墓を建立した、三戸の大竹秀蔵の兄(大竹主計の弟・新十郎)へ嫁いでいる。その碑文は当時としては立派な石であり、碑の脇には「会津出身の諏訪伊助の娘が嫁して大竹様の妻となる」ときざまれている。
 埼玉の倉澤家に保存されている知行人別帖では、倉澤は400石。諏訪伊助の父大四郎は800石(安政4年6月複写)であったが、安政6年に家老となり17,00石となる。
 斗南藩職員録には、
権大参事 山川与七郎 浩
小参事 明治3年8月18日任 
    山内頤庵知通
小参事 明治3年9月3日任  倉澤平治右衛門 重為
小参事 明治4年3月21日任  永岡敬次郎 久茂
小参事 明治4年3月22日任    広澤富次郎 安任
 という記録がある。その後、斗南県から統合して青森県と改称になった。明治3年5月半ばから斗南藩野辺地支庁長。明治9年5月12日、第7大区第16中学区取締をつとめ、青年教育の必要性を強調した。
 このころ、日新館教育を五戸で開設(明治6年2月10日五戸に漢学塾・斗南藩士上島良蔵を招いて三戸塾を創設・田名部でも開く)し、旧会津藩士の子弟や五戸地方の有為な少年たちがこの中ノ沢塾に午前、午後に分かれて四書五経の素読を勉強した。受講生の年齢や修業年限は問わなかった。授業料の微収もなかった。そのため、少年たちは薪を集めたり、台所を手伝ったり、野菜づくりをする内弟子もいた。少年のなかには大人になって町長となった金沢治郎、田村喜三郎、代議士の中川原貞機、三本木町長の川崎新兵衛、東大に入学した江渡狄嶺(後に農哲学者・思想家)、工藤京造らがいる。
 農業振興としては、明治15年12月、旧斗南藩士族の三本木村総代桜井政衛、五戸村総代倉澤平治右衛門の名で牧畜産馬・養蚕製糸・機織購入資金借用願いとして、青森県令郷田兼徳宛に「就産資金拝借之儀嘆願書」を提出するなど、地域の農産にも寄与している。

元斗南藩士名簿 青森県立図書館 蔵
元斗南藩士名簿 青森県立図書館 蔵

会津藩士の大移動


 会津藩が戊辰戦争で破れ、斗南藩として主に青森県に移封された。旧会津藩士たちは会津・東京・越後高田に収容されていたが、斗南藩30,000石として再興し明治3年4月から海路と陸路に分かれて斗南の地を目指した。士族総数4千戸のうち、2,800戸という。移住者17,000人の大移動が始まった。このうち三戸町に約800人が移住したという。この大移動で、藩士たちの移住先の采配などを拝受したのが小参事・倉澤平治右衛門である。
 斗南藩は下北半島のほか、今の北海道や青森と岩手の県境付近にも飛び地の領地を持っていた。今の行政区域に従えば、青森県内はむつ市・三戸町・田子町・五戸町・新郷村そして十和田市の一部・岩手県二戸市の一部となる。この地域への入植は五戸が中心だった(斗南藩発足当初は五戸に藩庁が置かれた)。

新選組の斎藤一と同居


 新選組の副長だった斎藤一も他の藩士たちと共にこの五戸に入植している。倉沢平治右衛門は新選組副長助勤斎藤一の妻時尾の義父にあたり、斗南時代彼も倉澤と一緒に(藤田五郎と名を変えていたが)ここに同居していた。
 斎藤一は、明治10年2月には警視局の警部補に任ぜられる。同年2月15日、西南戦争が勃発。抜刀隊として同年5月に戦闘参加。抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷するがその天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍をしている。

 

田子町の教育・農業振興


 倉澤平治右衛門の長男弥太郎は、明治18年春、27歳で田子村ほか八ヶ村の戸長、22年4月には上郷村初代村長となり、その後明治33年12月10日父平治右衛門の死去にともない家督を相続し34年2代目・倉澤平治右衛門と改める。その後上郷村・田子村が合併となり田子村四代村長も勤めた。在職中、五戸の中ノ沢塾の門下生であった、三浦梧楼を呼び寄せ上郷村尋常小学校訓導兼校長に任命。また、上郷村立農業補修学校訓導兼校長に任命している。明治38年11月20日には上郷村学務員に任じている。そして、この上郷から多くの優秀な人材を輩出している。

 

上郷村立(現在の田子町)
農業補修学校養鶏飼育場
左から倉澤村長、
道地忠八、
東長五郎、
三浦梧楼、
田向初三郎の皆さん
(明治39年5月25日)   写真 三浦栄一 蔵

白虎隊士・林八十治の弟


 三浦梧楼は、白虎隊の一員として飯森山で自刃した林八十治の弟で四男(明治4年2月22日下北郡川内村で生まれている)。
 父忠蔵は、会津藩の博識の士として知られ、外様士から日新館の素読所につとめ、青少年の教育に心血を注いでいる。梧楼は、下市川小学校では成績も良く、和漢名家文章規範一部、明治十四年6月25日、年少にして品行端正、全教科に合格し、物理地誌略など三冊の本を青森県から賞与として贈呈されている。明治20年4月3日、上市川尋常小学校仮教員。21年3月1日、神田駿河台の市立成立学舎予科第1期2組に学び、同年3月17日俊明義塾では、夜間、数学と漢字を学んでいる。同年5月1日から成立学舎2期2組に昇進、英語の勉強に熱中していたが病気のため帰村した。22年4月25日、東京組合代言人の野出鍋三郎方に寄寓し、9月7日から私立東京専門学校行政学科第1学級に校外員として講義録によって修学していたが、10月にまた病気となり帰村している。
 この頃に上郷村倉澤村長と出会ったものと思われる。当時、兄の輿子は上市川小学校長をつとめ、父忠蔵は六十歳だった。下市川小学校仮教員となったのは23年2月8日、その後上市川小学校へ転勤。五戸小学校へ転勤し五戸地方教育会に加入している。25年1月11日待望の地方教員免許状が届いた。梧楼は教員免許状の発令によって2月17日、五戸小学校訓導に昇格。講習会だけで訓導となったのは努力の賜物である。
 明治25年6月30日、三浦たき(19歳)と結婚し、三浦家に養子に入ったことから林梧楼から名を改め三浦梧楼となる。
 明治43年4月の旧斗南藩人名録には、田子村は上郷郵便局の根橋伝吾局長の名前しか見当たらないが、旧斗南藩藩士末裔として倉澤平治右衛門・三浦梧楼の他、田子村の警察官を勤めた塚原伊予之進、昭和では大正2年から田子小学校に30年勤務し、大正14年以降校長を勤めた後、三戸町教育長を6年間、計46年間学校教育に携わった井口信雄。昭和になって田子町渡部町長など斗南人の末裔である。
 田子町における教育・農業の振興に貢献した旧斗南人末裔の功績は大きいが、田子町に残る史料は火事などにより消失しているのが残念である。

 

(写真)

倉澤を偲んで「故儒翁倉澤先生弟子教育之跡」の標木を屋敷内に建てた。
大正5年10月14日建立
左から
木村祐次郎(旧三浦吉三郎の兄)
江渡幸三郎(狄嶺)
菊池源吾(五戸町収入役)
三浦伝一郎(伝七の長男)
坐っているのが福士秀雄
標字は江渡狄嶺

 

〈参考資料〉

○流れる五戸川続⑨(おらが村の会津様) 三浦栄一 著 ○青森県史近現代資料集 

○三戸・斗南残照 大庭紀元 著 ○五戸町史