斗南藩の歴史(17)山川家の人々

                             斗南藩歴史研究会 渡部昭

 

山川 浩

 山川家は旧藩時代は1千石の禄高の上級武士であった。斗南藩誕生後は、長男浩は、権大参事の職につき、青森県への移住者1万7千人を率いて苦難の道を歩 んだ。廃藩置県後は陸軍に入り、陸軍省人事課長、東京高等師範学校長となり、明治24年少将に昇進。貴族院議員に勅選される。更に歌人としても有名で歌集 を出版している。

 新政府軍により鶴ヶ城が包囲される中を、地元に伝わる彼岸獅子の姿で堂々と入城するというできごとがあった。悲惨な物語しか伝えられない会津戦争の中で、唯一の痛快なできごとである。
これを指揮したのは山川大蔵、白虎隊士で東京帝国大学総長になった山川健次郎の兄である。
 山川大蔵は朱雀隊などを指揮し、日光口の50里に宿陣していたが、他の国境が破られ、鶴ヶ城での籠城戦が決定されると、帰城の命令を受け会津城下に駆け 戻った。飯寺まで来ると鶴ヶ城がすでに新政府軍の包囲網の中にあることを知った。ここで大蔵は1計を案じ、会津伝統の彼岸獅子の姿で入城することを思いつ いた。笛と太鼓を先頭に堂々と敵陣を進む。鶴ヶ城の城兵は味方と気づき砲撃を止め、敵はあっけに取られただ見送るだけであった。大蔵の1団は味方が開いた 西追手門を通り抜け城内に消えた。





山川健次郎

 山川家は何れも俊秀で次男健次郎はドイツ、米国留学、物理学を専攻して福島県下初の博士号。東京帝大、京都帝大、九州帝大各総長を歴任している。妹は三人いたが、二葉は東京女子高等師範学校舎監。操は、昭憲皇太后の女官をつとめた。

 

大学の創立
 欧米を見習った近代国家をつくるため、明治政府の国家的な課題が、それを担う人材の育成でした。旧幕府の学問所や研究所は、改組統合しながら明治10年に東京大学となり、明治19年の帝国大学令で、東京帝国大学などの国立大学の設置が進みました。
 山川健次郎は東京帝国大学総長を始めとして、創設間もない、近代日本の教育制度の維持と発展に力を尽くしました。

謹慎から脱出
 健次郎は、安政元年(1854)若松城下本二之丁(現東栄町)に、会津藩士山川尚江(なおえ)の三男として生まれまし た。9歳から藩校日新館に学び、15歳のとき、藩の軍制改革により白虎隊に編入されますが、若年のため一旦除隊しています。その後、藩命でフランス語を学 びますが、城下に戦火が及ぶと籠城戦に加わりました。開城後、猪苗代に謹慎中に脱出し、会津藩士秋月胤永(かずひさ)の手配で、長州藩士奥平謙輔(けんすけ)を頼り新潟へ逃れた後、東京へ出て苦学しました。

最初の理学博士
 藩が斗南(となみ)で再興され、健次郎は18歳で政府のアメリカ留学生に選ばれました。エール大学で物理を学び、22歳で学位を取得。帰国後は、東京開成高校で教べんを取りました。東京大学に改組されると、26歳で最初の物理学教授となります。
 健次郎は、実験器具の整備や学生の指導など物理学教育の基礎を築きました。

東京帝国大学総長
 48歳で総長となり、4年後の明治38年には、政府を非難した教授が処分を受け、教授たちが大学の自治を求め決起する事件(戸水事件)が起こりました。 健次郎は、自ら辞任することで混乱を治めました。その後、明治専門学校(現九州工業大学)の総長となり、さらに九州、東京、京都の各帝国大学の総長を務 め、揺れ動く大学教育の維持に努力しました。

「京都守護職始末」
 健次郎は、育英のため会津学校会の設立や、上京して就学する会津の学生のための寮(至善寮)の建設など、人材の育成に力を尽くしました。さらに、兄浩が残した「京都守護職始末」を完成させ、幕末における会津藩の立場を明らかにしています。
 昭和6年(1931)78歳で亡くなりました。

 

◎参考文献…小檜山六郎他「近代日本に生きた会津の男たち」会津武家屋敷
◎写真:山川建重蔵・写真提供:博物館会津武家屋敷

 

山川捨松

 山川浩の妹捨松は我が国初の女子留学生5人の一人として明治5年、欧米使節岩倉大使一行と渡米した。5人のメンバーは次ぎのとおりである。
 東京府出仕吉益正雄娘亮子(16歳)・外務中禄上田 娘悌子(16歳)・青森県士族山川与七郎妹捨松(11歳)・静岡県士族永井久太郎養女繁子(11 歳)・東京府士族津田仙弥娘梅子(9歳)。 僻遠の地である青森県士族の山川捨松の名は光っている。捨松の母勝清院は、まだ12歳の末娘を捨てるつもりで 送り出したが、心の奥底ではその帰りを待つ思いから前名咲子を捨松と改めさせたという。捨松は合衆国において女子の最高府といわれたバッサー・カレッヂに 留学し、10年間の留学期間を終え、更に北米ボーキピシーウ町の大学を優秀な成績で卒業し、明治15年津田梅子(津田英学塾創始者)らと共に帰国、鹿鳴舘 で 伊藤博文、山県有朋、大山巌ら明治維新の元勲らの中で、英語を自由に話せる花形女性として活躍した。
 その美貌と共に、長い米国生活で得た洗練された身のこなし、華やかなワルツに乗って踊る当時のトップレディに気のある男性はみな言い寄った。今も昔も変 らぬ男心である。ハートを射止めたのは陸軍の大山巌であった。大山は先妻を亡くしてそれは、会津戦争のとき大山は薩摩藩の砲隊長として鶴ケ城を攻撃してい ることが理由であった。
 結果的には挙式となる。結婚後は先妻の遺児3人もよく育てた。長女信子は徳富蘆花の「不如帰(ほととぎす)」のモデルといわれた。「・・・ああ人間はな ぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年万年生きたいわ!」の名せりふは当時のご婦人方の紅涙をしぼった。「不如帰」では冷たい継母にされているが、実際は遺 児と実子4人の子供を守り、皇后陛下の顧問役となっている。大正8年、スペイン風邪のため63年の生涯を閉じた。