斗南藩の歴史(8)白虎隊・飯沼貞吉

        斗南藩歴史研究会 山本光一

 

斗南藩本籍地の調査

 明治5年1月9日、斗南藩の人口調査が行なわれた。その名簿によると、飯沼貞吉の家族は五戸村(現在の五戸町)40番戸に12名で住まいしていた。
 藩士は飯沼源八(24歳)、曽祖母みの(87歳)・祖母こう(67歳)・父隠居猪兵衛(47歳)・母ふみ(43歳)・弟貞吉(21歳)・弟 関弥(11歳)・妹ひち(15歳)・大叔父留蔵(61歳)・同妻よし(47歳)とある。飯沼一家が今の五戸町川原町に住んでいた時、祖母こうおばあさ んが明治四年8月29日に亡くなり、八幡宮入口の根岸家の墓地に埋葬したが目印の石を建てなかったので、今も発見できていないという。
 飯沼家は、斗南へ移封されてから五年間、五戸の地で貧困の生活をしながらも、貞吉(後貞雄)を静岡に留学させていた。そして、飯沼一家は、明治七年五月に歩いて会津に帰っている。

飯沼貞吉

 嘉永7年(1854)3月25日、会津藩士・飯沼時衛一正(物頭を勤め、家禄4百50石)の二男として郭内本二之丁と三之丁間、大町通りの邸に生まれ る。母ふみは西郷十郎右衛門近登之の娘で、玉章(たまずさ)という雅号を持つ歌人でもあった。家紋は、からおしきにちがい鷹羽。
 家族は、両親と兄の源八、妹のひち、弟の関弥。他に祖父の粂之進、祖母、曽祖母、叔父、下男下女が同居していたという。会津藩家老・西郷頼母の妻千重子は叔母にあたる。山川大蔵(浩)、健次郎、捨松は従兄弟(母同士が姉妹)。
 年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の19士と共に自刃に及んだが、死にきれず蘇生。維新後は貞雄と改名、逓信省の通信技師と なり、明治5年の赤間関(山口県下関市)を振り出しに各地に勤務、日清戦争にも従軍した。明治43年、仙台逓信管理局工務部長に就任。退職後も仙台に住 み、昭和6年2月12日、77歳で生涯を終えた。戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。

貞吉の蘇生

 白虎隊の自刃は、貞吉が蘇生したことにより初めて世間の知ることとなった。飯沼貞吉の回想によると次の成り行きがあったという。 
 幸か不幸か、貞吉は死にきれずにいた。彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。『會津戊辰戦争』にある貞吉の回想を 紐解くと、人事不省に陥った彼は、まだ身体に温もりがあるのを印出ハツに発見され、その呼びかけに意識を取り戻した。
 ハツに城も殿様も自分の両親も無事だと聞かされ、信じられぬと反論したが、ハツが真実であると再度強調するので、貞吉は両親に会いたくなった。(中略) 白虎隊の話が出るたびに誠に申し訳がなく今更ながら残念至極であるが一目たりとも両親にといふ心が出たので、咽喉の傷口に手を当て、起き上がり、婆さんに 扶(たす)けられ飯盛山の麓の叢(くさむら)まで下がったのが日の暮れ方、今の五時頃かとある。(『會津戊辰戦争』飯沼貞吉の回想)
 飯沼貞吉の生還により明らかとなった19名の落城誤認による自刃ばかりが「白虎隊」として何度も映像化されてきた経緯があるためか、実際には全体の8割 以上の290名の若者が生き延びた(これは新しい時代に向けて、追い腹を切る事を禁じられたものとされる)と言われていることに対する一般の認知度は極 めて低いものとなっている。飯沼貞吉の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所の少し距離を置いた場所に埋葬された。

「白虎隊」の日本最古の墓

 戊辰戦争では西軍と会津軍との双方に多くの戦死者が出たが、このとき西軍の将兵は丁寧に埋葬されたが会津藩士および一般人の死体は戦争が終わっても放置 されたままであった。西軍側である民政局の、「手をつけた者は厳罰」という令により、道々には無惨な死体が捨て置かれたままにされ、それは時が経つにつれ 腐敗し、鳥獣の食い荒らすに任されていた。この非情な扱いには武士道など皆無であり、あまりの処置に多くの会津藩士が怒りに燃えた。
 明治4年1月13日に、斗南に移住していた会津藩士大竹秀蔵(当時30余歳)は白虎隊の死を悼み三戸の観福寺に日本で最初の白虎隊の墓を建立した。一生 を独身で通した秀蔵の晩年は三戸元木平某家で死去したともいわれ、一説には「俺は死ぬときは五戸の親戚にいって死ぬ」と言って、長々お世話になったお礼に と刀3振を若庄小笠原家へ置いていったという。その他三戸には明治19年建立の三戸大神明宮の会津日新館学館教授・杉原凱先生の墓、明治27年8月23日 建立諏訪内悟真寺の戊辰殉難者招魂碑などもある。

飯沼一元 氏
飯沼一元 氏

白虎隊の墓碑を訪れる

 青森県の三戸町には、明治4年(1871)正月に観福寺境内に斗南藩士・大竹秀蔵が建立した全国初の墓碑がある。この碑をお参りする人が後を絶たない。今年、白虎隊が自刃した月命日の八月に、会津若松から斗南の碑めぐりにやってきた団体があった。 
 三戸町の斗南会津会・副会長の大庭紀元さんからご連絡をいただき馳せ参じた。この団体には、飯沼貞吉の孫、工学博士の飯沼一元さん(東京在住)が参加しており、おかげさまでお会いすることができた。
 飯沼一元さんは、貞吉が蘇生しなければこの世にいなかった。
 戊辰戦争戦死者を埋葬できなかったこの時代、藩士・大竹秀蔵が秘かに建立した白虎隊士無念の墓碑に、飯沼貞吉の蘇生を知らず名を記載しているのを見て誠に感慨深いものがあったに違いない。

 

〈参考資料〉

流れる五戸川続⑨(おらが村の会津様) 三浦栄一 著