斗南藩の歴史(7)内藤介右衛門信節
斗南藩歴史研究会 山本光一
内藤介右衛門信節
家禄は千7百石(のちに2千2百石)。家老・介右衛門信順(号は可隠)の長男として生まれ、幼名近之助、名は信節。弟に同じく家老に昇進する梶原平馬景武、のちに彰義隊に入隊した武川信臣がいる。
甲斐の武田信玄麾下「武田24将」の1人である内藤修理亮昌豊には嗣子がなかったため、高遠城主保科弾正忠正敏の次男を養子に迎えた。その後戦国期終焉の動乱を経て、この血統が保科正之に仕えて保科家の大老となり「会津内藤家」の祖となった。したがって会津松平家と内藤家は縁戚である。
内藤介右衛門信節は、この「会津内藤家」の9代目で、天保10年生まれ。11歳で家督を継ぎ藩主松平容保が京都守護職に任命されると23歳で京都勤番、25歳で若年寄。禁門の変の際、長州軍を撃退した後、態勢を立て直すため退き、直ちに守りを固めなければいけない所を、薩摩藩に守備を任せた為、閉門を仰せつけられ、若年寄を非職させられる。翌慶応2年(1866年)9月、27歳で若年寄に復職すると、同日家老に昇進する。
このとき実弟の梶原平馬も家老職に就いた。
また、慶応3年2月、会津藩は守護職の辞職を幕府に申し入れるも聞き入れられず、介右衛門信節は会津より上京し、板倉を訪ね容保の一時帰国を了承させる。
平馬と共に奥羽越列藩同盟を推進し、西郷頼母が白河口の総督を罷免されると、変わりに白河口の総督となる。
会津戦争時は、当初勢至堂方面の陣将として出陣していたが、母成破れるの報に接し、大平口の原田対馬隊を吸収して千名の大部隊となって強行入城を果たす。籠城戦中は三ノ丸の守備を担当。この間、一族が面川の菩提寺「泰雲寺」にて集団自刃している。
戦後、東京での謹慎を経て明治3年(1870年)斗南・五戸へ移住、辛酸をなめながら藩の存続に尽力したが、明治4年7月、廃藩置県によって藩が消滅。多くの旧会津藩士たちが会津へ戻る中にあって介右衛門はそのまま五戸村に残留し、現地の開拓や子弟の教育に生涯をかけた。今でも信節が最初に住まいし、上市川村で開墾した田は「内藤田」と呼ばれ残っている。
明治32年(1899年)6月16日、波瀾にみちた生涯を閉じた。享年61歳。墓は青森県三戸郡五戸町愛宕後の光明山高雲寺。
泣血氈(きゅうけつせん)
五戸の本家内藤家には、今も泣血氈が残っている。昨年、内藤家の末裔の橘えみ子さんが(斗南藩の歴史研究会・会員)会津若松からお墓を訪ねて来て、ご案内したことがある。そのとき、和尚さんが内藤家を訪ねるよう勧めてくれた。内藤家では突然の訪問にもかかわらず家の中に招き入れてくれ、家宝にしている泣血氈など見せてくれた。
この泣血氈は、大きく歴史を変えた会津降伏の式場に敷かれた毛氈であり、目の前の「歴史の証」を見た時は身体が震えた。
これは、次のような云われがある毛氈。會津戊辰戦争の終結となった降伏式は、鶴ケ城に隣接した甲賀町通の内藤介右衛門邸の庭園、現在の白露庭で慶応四年(1868年)九月二十二日(旧暦)。巳の刻(午前十時)に追手門に白旗が掲げられ、すべての砲声が止んだ。降伏式は式場に薦を敷き、その上に緋毛氈が敷かれてとり行われた。
藩主容保公、並びに喜徳(のぶのり)父子が着座し、西軍は中村半次郎軍監、山県小太郎軍曹が迎えました。二公は立礼して恭しく「臣容保恐謹乍」で始まる降伏謝罪の書を総督府に上呈した。
緋毛氈は式の後、秋月悌次郎が細かく切り分けて生き残った會津藩士に配った。これは會津藩士が血の涙を流した泣血氈と呼ばれ、この日の落城の屈辱を忘れまいと毛氈を切って、苦難を共にした重臣に配布したもの。
内藤さんは、この泣血氈の一部分を会津若松市に送り市長から感謝状を贈呈されている。
【参考文献】
「会津藩に仕えた内藤一族」
発行者 菅野恒雄(非売品)
「幕末維新人名事典」
新人物往来社 塩谷七重郎氏著
「内藤介右衛門」
「幕末・会津藩士銘々伝」
新人物往来社