斗南藩の歴史(4)広澤安任からの手紙
神達也さんから、この手紙をお借りし十和田市文化財審議委員 津島光さんに解読していただきました。 斗南藩歴史研究会 山本光一
【意訳文】
このほど遥かに御地をお訪ねもうしあげ、お久し振りにお目通りがかない、お互いに真意を打ち明けて、心からお話合いできましたことは、誠に嬉しいかぎりでございました。
過ぐる想いは湧き出るように溢れ、実に嘆くべきは、これまでに共に戦ってまいりました会津の方々が、日々困窮される中、あたかも月が欠けるように次々と消えてゆかれることでございます。
新たな地にての知り合いは無くはございませんが、風情自ずと異なり雲のたなびくように親密になど申し上げようもございません。どのように高い理想を掲げつつも足どりおぼつかなく、拙いことこの上もございませんがお笑いにならないでください。
人生とは何でありましょうか。必ずしも冠を着け栄達を得るものではありませんでしょう。それ故野に下り、我が残された身をこの処にゆだね、国家につくそうと思います。
荒れ野は果てしなく広く、苦難の道のりではありますが、寛容な心にて、朝廷の命と時の流れに従い、天神の使いであります牛に乗り、平穏に立ち去りましょう。
北の果てなる三沢の牧野にあって、のんびりと横たわる牛を眺めておりますと、こちらの方まで眠くなってしまいます。しかし、眠りもまた、安らぎを与えてくれます。
この古文書は旧会津藩士、広澤安任から同家の西郷(保科)頼母宛の書簡文である。日光東照宮に住まわれていた頼母を訪れ、親しく拝謁、お互いに心境を語り合った際の礼状で、頼母が日光東照宮の禰宜をされていた明治13年(1880)から同20年ころの間に書かれたものと思われる。
後半の文は、次のような七言絶句の漢詩となっており、会津藩士であった広澤安任の決意のほどが伺われる。
人生何必要着冠
残躯托處曠原寛
朝随水平跨牛去
牛肖催眠眠亦安
【参考文献】
大字典、会津藩斗南へ-誇り高き魂の奇跡、コンサイス人名辞典、新日本史年表、青森県人名辞典、会津・斗南藩史、斗南藩史、開牧五年記事、人生八十年-前青森県知事 北村正哉の軌跡、新明解古語辞典、続会津士魂、ことわざ大辞典
【解読者】
2007年4月17日
十和田市文化財審議委員
津島 光
【 参 考 】
保科近悳近 旧会津藩家老
文政13年(1830)生まれ。会津藩主松平家の分家筋で代々家老職を務めた西郷家の11代当主。
明治3年(1870)「保科」に改名。
戊辰戦争に破れ(1869)閉居、一時幽閉されたが赦され、日光東照宮の南官として過ごした。
後に郷里若松に戻り明治36年(1903) 死去。
広沢安任 旧会津藩士
天保元年(1830)生まれ。名は富次郎。明治3年斗南に移住。
このころ「安住」に改める。廃藩置県後の明治5年三沢に広沢牧場を開設、日本初の洋式牧場経営を行う。
明治24年(1891) 死去。広沢は進取の気性に富んだ人物であっただけに、戊辰戦争勃発後、早くもその結果を読み取り、家老西郷頼母らと戦争の愚かさを説いて西軍への恭順を強く主張したが、藩論を左右するまでに至らなかった。
(文政13年は12月9日まで、10日天保に改元)