石碑に刻まれた会津の魂 斗南藩歴史研究会 野田 尚志
〜三戸に残る「会津三碑」を訪ねて〜
2013年1月、NHK大河ドラマ「八重の桜」の放送が開始されるや、全国に会津ブームが巻き起こっている。
幕末の動乱期にあって、時代を牽引しうるのは、新たな政体をつくり出した薩摩や長州・土佐・佐賀藩らであり、旧体制の象徴であった徳川や会津は、新時代の到来を妨げる存在でしかなく、そのことが元で滅ぼされたと歴史は伝えている。しかし、史書が記す正統性と後世の歴史に対する評価は必ずしも同じものになるとは限らない。今また脚光を浴びだした会津には、連綿と続いてきた日本人として普遍なる精神的規範が宿っているのではないか。戊辰戦争から150年を迎えようとしている折、未だ色褪せず輝く会津の魅力とは一体何であろうか。ここでは、三戸町で会津人が建立した石碑から、彼らの思いを辿ってみる。
白虎隊供養碑
(最初に建てられた白虎隊の墓)
三戸町の中心街への入口である同心町と八日町の境からほど近いところに、観福寺という浄土宗のお寺がある。ここに、戊辰戦争によって会津の飯盛山で自刃した16~7歳の少年兵である「白虎隊」の供養碑が建立されている。 この碑を建てたのは、斗南藩・三戸に移住した旧会津藩士の子息で大竹秀蔵という人物である。
慶応4(1868)年に起こった戊辰戦争は、新たな日本の姿をつくるために、多くの犠牲を生んだ。中でも白虎隊士の自刃は最も過酷な責めを受けた会津戦争における悲劇の象徴として今日、多くの本やテレビドラマなどで伝えられ、哀愁を誘われる。
会津が敗れた後、領内には戦死者の遺体が各所に横たわっていたが、新政府軍の命令によって埋葬は許可されず、遺体はしばらくの間、放置されたという。風雨に晒され、鳥獣に害される惨状を憂えた地元会津の領民が見かねて死者を埋葬しようとしたが、新政府軍に見つかり投獄されるほどの徹底ぶりであった。会津の降伏後しばらくして、ようやく埋葬の許可は下りたが、墓碑の建立については相変わらず認められなかった。
このような世情下において、会津から遠く移封された三戸の地で密かに供養の墓を建立した大竹秀蔵とはどんな人物だったのだろうか。会津の末裔である大庭紀元氏の著書『三戸斗南残照』によると、秀蔵は会津士族の子で、軍事奉行を務めた大竹主計(かずえ)の弟であったという。三戸へ移住した秀蔵は、同じ会津出身で、三戸で商家を営む若松屋の世話を受け生活していた。
移住して間もない明治4(1871)年1月13日、秀蔵は、母シヲの一周忌に合わせて観福寺に供養碑を建てるが、なぜかこの碑の正面には、飯盛山で自刃した白虎隊士17名の名前が刻まれている。しかも、隊士の中には自刃はしたものの、後に蘇生した飯沼貞吉の名も見える。
また、飯盛山に石碑が建てられたのは、悲劇からしばらくたった明治14年以降といわれており、三戸町の供養碑はそれよりもずっと古いものであるというから驚きである。
秀蔵は妻帯せず、飴売りをして細々と生活しており、自身の記憶を世間にほとんど残すことなく、大正14年に亡くなっている。
秀蔵が建てたこの碑は、母と同胞の供養を願ったものであろう。秀蔵が亡くなる二年前の大正12年、同じ旧会津藩士の末裔である矢村績が観福寺を訪れ、秀蔵が建立した碑をみて感慨にひたり、白虎隊士の一族と旧会津藩士についての激励文を発している。
秀蔵の深い弔意の心は多くの人に感動を与え、今なお、会津にゆかりを持つ人々がこの碑を見に訪れている。ほとんど残すことなく、大正14年に亡くなっている。
杉原凱先生之墓(青森県近代教育の源流に影響)
文化3年(1806)に会津藩士の子として生まれた杉原凱は、幼い頃から勉学に励み、若くして私塾を開いたという。その後、藩の教育者として次第に頭角を表した杉原は、天保時代(1840年頃)に日新館の教授へと抜擢され、さらに学館預(館長職)となった。しかし、慶応4年に起こった戊辰戦争は、日新館をも戦火に巻き込み、杉原から全てを奪い去ってしまう。
戦争後、会津藩士は斗南へ移住することとなり、この時、杉原は三戸に居を移した。全てを失った杉原ではあったが、後進を育てるための学塾を再び起こそうと奔走する。ところが明治4年、病魔に冒された杉原は、志半ばにして亡くなってしまう。杉原という主柱を失ったことで、日新館以来培ってきた教育の土壌が潰えたかにみえたが、弟子たちの多くは師の精神を受け継ぎ、青森県の教育界へ進出。青森師範学校長の沖津醇や三戸小学校三代目校長の渡部乕次郎など、青森県近代教育を発展させる人材が次々と輩出された。
杉原が没してから15年後の明治19年、師を弔うため、三戸大神宮へ多くの弟子が集まり、墓を建立した。
(会津殉難者二十七回忌の供養碑)
町中心部にある悟真寺(浄土宗)の境内に、明治維新中に亡くなった人たちを祀る大きな招魂碑が建っている。この石碑は、戊辰戦争で命を落とした会津藩士をはじめ、斗南藩への移住にともなって亡くなった人など、維新の混乱で死んだ会津人全ての者を弔うものである。
1894(明治27)年4月29日、会津から三戸へ移り住み地元の有力者として活動していた者たちが悟真寺に集まり、戊辰戦争から27年目を迎えるに当たって会津殉難者の27回忌を行うことを決め、このとき、慰霊のための石碑を建立することになった。
碑の建立に手頃な石材を得るため、廃城となっていた三戸城大手(綱御門)高石垣の石を払い下げてもらえることになった。建碑用に選んだ石は、片面が畳み一畳ほどもある大きなもので、重さは約3トン。石を運ぶため、人夫30名を集めたが、押せども引けどもビクともせず、建碑委員や見ていた近所の町人もこれを手伝って、2日がかりでようやく運び終えた。
8月23日、三戸移住の旧藩士らの思いを込めた碑が建立された。碑の題字「招魂碑」は斗南藩主であった松平容大が揮毫、撰文は旧会津藩士で(東京)高等師範学校教授の南摩綱紀、文の字を揮毫したのは、三戸小学校三代目校長(在職は明治23〜30)の渡部乕次郎である。
明治27年10月、会津関係者が悟真寺に集まり建碑招魂祭が行われた。ここに、松平容大による弔祭文の一部を紹介する。
「これから幾年が過ぎ、磐梯山が崩れる時がきても、猪苗代の湖が涸れる時がきても、忠義を尽くしてくれた藩士一同の名は、永くこの碑とともに朽ちることはない」。
これを機に毎年、5月1日を法要日と定め、桜の花が咲き乱れる頃、斗南の縁故者が大勢集まって近年まで供養を欠かさないできた。
悟真寺の住職は「この碑が建立され、一年に一度ここに集まることで、会津の人々は永く強い絆で結ばれただけでなく、深い愛郷心を養ったのでは」と語られている。
碑が建立されてから、来年で120年を迎えようとしている。
碑に託された思い
ここでは、三戸に残る会津関連の石碑について紹介したが、日本各地には他にも数多くの会津人が建てた石碑がある。いつの世でも、死者に対する供養は行われているが、会津の石碑を前にして思うことは、単なる弔いだけではないということである。彼らは、先人を敬うとともに、過去や歴史に学び、そのことを更に次の世代へ託し、未来へとつなげているようだ。時代の波に翻弄され、傷つき倒れても、立ち上がり前に進み続けようとした会津人の想いは、今も変わらず石碑の中に感じることができる
「萱野権兵衛位牌」
招魂碑がある悟真寺の位牌堂の一角に、会津藩家老であった萱野権兵衛の位牌が祀られている。藩の侍大将を務める名家に生まれた萱野は、藩主松平容保の側近として仕え、戊辰戦争中も藩主の傍につき従っていた。会津が敗れた後、新政府から戦争の責任を問われた藩主に代わり「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べ、江戸で切腹した。
位牌の正面には、葵の紋を上にして、下に戒名が書かれている。その隣に「旧会藩士一切精霊」とあるが、これは、会津の殉難者全てを供養する意味と思われる。
また、招魂碑の文の前段には戊辰戦争の起こりから、会津藩士や少年婦女子らまでが犠牲となったことがつづられ、次に「乱平後藩執政萱野長修代衆屠腹以謝抗王師之罪」とある。これは「戦争が終わって会津が責められたが、家老の萱野権兵衛がその責任を一身に受け切腹したことで、帝に罪を許してもらうことができた」との意味で、萱野を讃えている。