斗南藩の歴史(15)井口慎次郎
澤口 豊(田子町)
井口慎次郎(井口信雄の父常四郎の兄)
井口宅を訪ねて
井口信雄の生前、客間の右手に、漢詩の七言絶句の丸い色紙かけがあった。
碌々生(ろうろうとせい)を偸む(ぬす)は我が慙(は)ずる所。
年算二十已(すで)に三を加う。
精進百折すとす曾(かつ)て撓(たわ)まず。
報国挺身即(すなわち)ち是男(これおとこ)なり。 (訳・井口慎次郎の辞世の句)
「これは誰ですか」と尋ねたら「私の叔父です」という。私は井口慎次郎という人を知らなかった。私の反応を見て、しばらくして、「私の母方には偉い人がありました」と。その時、それは何という人ですか、どういうことをなさった方ですかと尋ねるべきであったが、私にはそういう知識も才覚もなかった。何の用件で訪問したのか忘れたが、色紙の辞世の句も挨拶ことばで終わり、話題はそれてしまった。若いとは情けないものである。
この後悔がいくらかでも井口家のことが書かれているものを読もうと思うきっかけとなった。そして、せめて30年も教育していただいた田子町の方々にはお知らせしなければならない。その義務が私たちにあるのではないかと思うようになった。急がなくてはならない。井口先生に教えていただいた最後の方々は既に70代半ばから80歳に近いはずである。
思案橋事件
明治9年10月29日、元斗南
藩の小参事永岡久茂に従い、いわゆる思案橋事件に係わり、翌明治10年2月7日、東京市ヶ谷で井口慎次郎、竹村俊秀、中原成業は首謀者として明治10年2月7日に処刑され、永岡は事件の際の負傷が元で獄中で死亡した。
思案橋事件とは、旧長州藩士前原一誠等と共謀し、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱に呼応して挙兵、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光をへて会津を扼し若松に大挙しようという計画であった。
10月26日に熊本神風連の乱が起こり、その報を聞くと永岡は同士を集めた。来ない者も多かったが、井口、中根、中原、能見、松本、一柳、木村、満木、高久、山本、高崎、松岡、弥三郎、そして永岡の十四名で事を起こす事になった。
10月28日萩で乱が起きると、この時を逃しては成らないとした。 この計画は「千葉に行き、黒河内良の推薦で多くの藩士が警察官に採用されていたので、その中から旧会津藩士を募り、官金を奪い、陸地土浦より水戸へ行き、水戸士族を募り、栃木県に入る。その際、松本は別隊を率いて間道から宇都宮分営を襲撃。そして新潟に入り該港の同士を併せ大挙しよう」としたものである。
思案橋とは今の東京高島屋の裏にあたるあたりで、当時は舟つき場であった。その後も思案橋という小さな橋があったので、この名称で呼ばれている。
10月29日決行の日。慎次郎は小舟の準備係で、五漕の小舟を船頭に頼んでいた。夕方6時の約束が、船頭が集まらないとのことで、一同は酒を飲んで待った。あやしいと思った船頭の密告で、夜11時になって警察隊に踏み込まれ、切り合いとなった。永岡と警察の隊長は揉み合って共に桟橋から海に転落した。永岡は「切れ」と言う。暗夜のことだから敵も味方も見境がつかない。
「二人とも切れ」と重ねて言う。 慎次郎は言葉通り大刀を振り下ろしたら、それは永岡の腰であった。慎次郎は自分の過ちに声をあげて泣いた。捕らえられて絶食して死のうとした。永岡はそれを聞いて「潔く死すべき時まで待つべきが武士というものだ。これが自分の遺言だ」と諌めた。
永岡は慎次郎の刑死の前、切られた傷がもとで死んだ。慎次郎と竹村俊秀、中原成業の三人が処刑されたのは、市ヶ谷の処刑場であった。執刀したのは山田吉亮で、吉亮は24歳、慎次郎と同年であった。曇りのない童顔を思わせて、あたかも故郷に帰る青年のように思われた。
死刑囚は皆目隠しの布きれで、あたりが見えないようにする慣わしであった。慎次郎は執刀者の吉亮に、その目隠しを取ってくれないかと頼んだ。「あの世で、新刑場の様子はどうだったと聞かれた時に答えようがないから」とのこと。
井口慎次郎、竹村俊秀、中原成業の墓は牛込、市ヶ谷富久町の源慶寺にある。新宿駅東口を出て、徒歩十数分の距離にある。井口信雄が三人の墓の前に立っている写真が「井口信雄追想禄・道ひとすじ」に載っているが、3人の墓の間隔が狭くなったように思われた。 また、自然石の後ろに名前だけが読めたとも書いていた人がいた。 慎次郎の辞世の句は紹介したが残る二人のは次ぎの通りである。
竹村俊秀(行年32歳)
「ことしあらばまた魁けん国の為わが魂をここに残して」
中原成業(行年51歳)
「白露と消ゆる命は惜しまねどなを思わるる国の行末」
墓にある辞世の句は、井口信雄の筆によるものといわれる。
武士社会の崩壊
明治4年廃藩置県となり、藩主と家臣の情的つながりは断ち切られ、また藩のあった土地からも武士は切り離された。1枚の公債を貰い、職業的経験もなく社会に放り出された。武士中心の社会が、帯刀禁止令と徴兵令の施行により武士そのもの存在の意味がなくなっていく。こうした武士の不満や不平の動きが各地に起きたのである。
明治7年 4月 江藤新平の佐賀の乱
明治9年10月 熊本神風連の乱
明治9年10月 前原一誠の萩の乱
明治9年10月 思案橋事件
明治10年1月 西郷隆盛西南の役
〈斗南藩の四つの流れ〉
1.故郷会津へ帰ろう。
2.この地で生計の活路を見い出そう。(広沢安任・牧場経営)
3.新しい世の流れの中に生きよう(山川浩)
4.薩長への反抗(永岡久茂)
井口慎次郎からの手紙
会津藩からこの地に移住した武士たち、そしてその家族は悲惨な暮らしをした。ギャダカざむらい(毛虫武士)、鳩ざむらいと陰口をたたかれた。意味は、木の芽、草の芽も毛虫のように食べつくす武士、鳩のように豆ばかり食べている武士と、この地の人々にあざけられた言葉である。命をつなぐ最低の暮らしぶりだったと思われる。
さて、井口家はこの当時どうだったろう。
井口信雄はまだ産まれていない。父、常四郎は13歳ぐらいで、祖父隼人の末弟、留三郎利秀に連れられ、祖母みよともども一族はこの地に移って来た。留三郎はまだ独身であった。家族としては、祖父隼人利成は奥羽六藩同盟のため越後の高田藩に派遣され、墓は高田の得願寺にあり、その弟源吾は同じく棚倉藩に派遣され戦死。この兄弟の末弟が留三郎である。また、井口家は代々剣道指南役として150石を領し、隼人まで続いていた。信雄の父常四郎の兄慎太郎は朱雀2番士中隊として、長命寺戦にて戦死。その弟が慎次郎で手紙の主。その弟寅ノ助利忠は戦病死(享年31歳)。末弟ふえ吉は幼いうちに会津の養蚕神社の養子となっていて、男は慎次郎と幼い常四郎だけであった。慎次郎もまた、会津戦争当時白虎隊にも入れる年齢ではなかった。
慎次郎は斗南に移住せず、永岡の書生となり在京した。本来であれば、家族を慎次郎が家長となり養っていくべきなのだが、叔父の留三郎利秀に養ってもらっていた。留三郎利秀から慎次郎に斗南に来て一家の主人としての努めを果たすべきだとの手紙があったらしい。
その返事と思われる一通は、よく慎次郎の気持を表している。原文は読み難いので、原文の手紙の手紙の写真と、現代文に直したものを紹介する。
(現代文に訳した概要) 解読・八戸高等学校 中村教諭(当時)
お読みになった後燃やして下さい。
3月1日のお手紙を謹んで拝見しました。お言葉のように、春ものどかになり、しだいにしのぎよくなってまいりました。まずは、母上はじめ渾家ご無事とのこと、謹んでお喜び申し上げます。次に小生変わったこともなく日々過ごしておりますので、どうぞ心配しないでください。姉上も嫁がれましたとのこと、おめでとうございます。会津若松に行く件についてご相談くださいましたが、私はいっこうにさしつかえありませんので、ご都合のよろしいようにお取り計らっていただきたく、よろしくお願い申し上げます。
最近の社会情勢は近頃会津若松はもちろんのこと経済的な逼迫は同じことですので、旅行などをして、余計な費用を費やすよりは、むしろそちらにおとどまりになったほうがかえってよろしいのではないかと思います。
さてまた、家族の世話をいたしかねる件についておっしゃっられたことについては、まことにごもっとものことでございます。もとより私は一家のあるじとしてすっかりお世話になっております道理はございませんが、ご存じのとおり私は(あなたと)ご同様に亡びようとしている国の家臣が無限の羞恥を抱いておりながら、なお何事もなさず、今に至るまで、ただ生きながらえ、生き甲斐もない者として生きていては、世の中の人に笑われ、死後、今はなき父兄朋友に面目ないことでございます。ですから、愚かで無能ではありますが、国家のために微力を尽くし、少しは国家の万一の事態に報いるため、すべてを明らかにしたいと思います。
もっとも、父兄が困難な中に死んで、私だけが生き残ったわけですので、家族の身の振り方はすべて私がいたすべきことでございますが、幸いなことに、叔父上様がそちらにおられるので、家族の世話についてはすべてお世話くださいますようお願いし、私は国家のために当地に滞在いたし、ひたすら国のために力を尽くしたいとあれこれ苦心しているところでございます。
叔父上様に家族の世話を致しかねると言われましては、私はまことに進退きわまってしまいます。私にとって、国事を捨てて御地へ参り、すきやくわを取って一生を過ごすのは、まことに心安らかなことではないのです。
また、だからといって、国家のためといって家族を飢餓に追い込むようなことは、どうして私の望むところでしょうか。かつ、叔父上様は当家を離れて別にお暮らしなさるようになったところに、さらにまた私の留守中までお世話いただくことはまことにお願いしにくいことでございます。また、だからといって、私が今帰郷いたしましても、なにぶん家族の経済的援助のめども立ちません。かつ当地にいて国事に苦心中ですので、帰郷いたしますことは不愉快このうえないことです。私の進退はここに極まってしまいました。心からご推察のうえ、なんとか家族の進退をお世話いただきたく、ひとえにお願い申し上げます。 常四郎もまだ少年のこと故、一家を託すことはできないことですので、なんとか、万事常四郎にご指導のうえ、家族の世話をしていただきたく、よろしくお願い申し上げます。
会津若松においでになる件は叔父上様のお考えにおまかせ致したく、どうぞよろしくお願い申し上げます。私も帰郷し、家族の世話をすべきところなのですが、さきほど申し上げましたとおり国事に苦心している最中でございますので、私の心中をお察しの上、何とか家族の世話をしていただきたく、伏してお願い申し上げたく、万事ご依頼申し上げてはご立腹のこともあるかと思いますが、何分にもお願い申し上げます。
常四郎も幼く修業中の身ですので、家計の事などに苦労させましてはたいへん気の毒ですが、他に方法もなく、私に代わりよろしく尽力するようお願い申し上げます。
右返事まで。 早々
慎次郎
ご母堂様
叔父上様
追敬 これから陽気も加わりますので皆々様お身体を大切になさってください。先年、諏訪左内が上京の折り、叔父上様が奥様をおもらいになりましたとかのように薄々伝え聞いておりますがいかがでしょうか。もとより、人間独身で通す道理はなくとても結構なことと思います。家事は万端どうぞよろしくお願い申し上げます。ただ今、天下の形勢は表面上は平穏に見えますが、実は大乱の兆候が見えます。他言ご無用に。
この手紙をお読みになったらすぐ燃やして下さい。
※手紙は燃やすように書かれていたが、現在も残っている。(この後に思案橋事件がある)
そして、この手紙は、公的に発表になったのは今回「しるばにあっぷる」掲載が初めてのことである。