斗南藩の歴史(1)滅びし会津藩のその後
斗南歴史研究会 星 玄二(むつ市)
藩士流転
私は、幼少の頃より斗南の地で二代目にあたる叔父と叔母から先祖のことを飽きる程聞かされ育った。よく安治郎じいさんの胡座の中で、片腕の中程に残った丸い弾丸を表皮までつまみ出して遊んだ記憶はこの歳になっても鮮やかに残っている。
安次郎じいさんは昭和二年十二月八日、七十八歳でこの世を去った。十八歳のときに戊辰戦争の決戦に備えての隊編成では、朱雀隊だった。
どのように戦ったかかは記録には残っていないが、降伏の翌日の慶応四年九月二十三日、猪苗代に幽収され翌年の明治二年一月九日東京に護送された降人の中 に星安次郎の名が記載されていた。兄の安之進は護送の途中に脱走した五十八名の名前の中にも見当たらないところから護送される以前に獄舎を逃げ出したもの と思われる。
安次郎じいさんが会津から持ってきた品物は、大刀、小刀、それに垢にまみれた紙片(はがき大)。それは、先祖代々の過去帳の写しであった。
(写し)
北会津郡町北村密藏院に葬ル
星 伴右衛門 光政
二代卯之吉
三代運吉
光盛安次郎じいさんが会津から持ってきた品物は、大刀、小刀、それに垢にまみれた紙片(はがき大)。それは、先祖代々の過去帳の写しであった。
先祖を尋ねて
退職を契機に私はこの紙片を頼りに先祖の墓探しに出かけた。日数がかかるのを覚悟の墓探し、簡易保険保養所宿泊所に一週間の予約をした。探索は会津若松駅前から始め町の人と思われる方に聞いて歩いた。
「北会津郡はどのあたりですか」
「ここだよ」「町北村は」「ここですよ」「密藏院は」「そんな名前のお寺は有りませんよ」結局市役所を訪ねて事情を話したが「そんなお寺は有りません」とのこと、途方にくれて宿に戻った。
二日目、三日目と次々にお寺を訪ね廻ったが誰も知らないという。親切な住職さんは、無縁となっている墓石の銘を丁寧に読み取ってくれありがたかった。公民館に行ったりと手をつくしたが見つからない。書店で古い地図を買い拡大鏡で探し続けとうとう昔の街道筋に「卍」の印があり、密藏院跡とあり探しあてた。早速密藏院を訪ね墓守りの須藤さんにお会いした。「確かにお墓は三基残っています。ここは大きなお寺だったそうですが戦で焼けてしまい、その後排仏毀釈のご命令が出て、お寺を建てることができなくなったそうです」とのこと。
その年から私の会津通いが始まった。幸いなことに会津史談会々長の佐藤芳巳先生と仲良しになり、戊辰戦争の戦跡をご案内いただき大いに勉強になった。
戊辰戦争に敗れて
百三十七年前、鳥羽伏見の戦で錦旗をおし立てた薩長軍に志気を削がれた会津軍は敗退した。戊辰戦争から百二十年を過ぎて、京都で行われた戊辰戦没者慰霊祭後の直会の席で、会津松平家十三代御当主保定様が「九代容保が孝明天皇から下された、御宸翰(会津藩が天皇の敵ではない証しの書)を来年の会津若松の戊辰戦争慰霊祭のときに鶴ケ城に展示しましょう」とお話になられた。翌年、私は本物の御宸翰が拝観できる喜びで勇躍出席したが、城中は警護が厳重でしかも参観者が非常に多くゆっくり鑑賞できる状態ではなかった。もちろん、写真撮影も禁止だった。
御宸翰(要旨)は
堂上(四位以上で昇殿を許された官人)以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、心痛耐え難く、内命を下せしところ、すみやかに承知し、心配と悩みを払いのけ、朕の存念貫徹の役、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也。 文久三年十月九日
というものであった。
【御製】
たやすからざる世に、武士の忠誠のこころをよろこひてよめる和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄えん武士とこころあはしていはほをもつらぬきてまし世々の思ひて
容保は明治になって賊軍の汚名を受けたが一切抗弁しなかった。廃藩置県により斗南から東京に移った容保は、晩年日光東照宮などの宮司を勤め、明治26年59 歳で亡くなった。容保の死後、容保が亡くなるまで肌身放さず持っていた一本の竹筒が発見された。
竹筒の中身はあの孝明天皇から下された、会津藩が天皇の敵ではない証の御宸翰である。
御宸翰には「暴論をつらね、不正の処置増長」し、時の天皇を「心痛耐え難く」した「会津は帝に逆らった賊軍」とは書かれていない。反対に会津の忠誠に感謝している旨の証としたものであった。
驚いたのはこの御宸翰の横に「会津宰相及び桑名中将の右二人は賊でありその罪軽からず、依て速に誅戮すべく仰せられ候事。慶応三年十月十四日」付での 勅命が掲示されていたことだった。不思議なことに、忠能・實愛・経之の署名の字体が同一人が書いたもののようで、しかも印鑑押もない。これが問題の勅命な のかと思った。錦旗を眼にした会津軍、桑名軍は総崩れとなり大阪に逃げ帰り、将軍慶喜はその夜、容保・定敬を無理に引き連れ軍艦開陽丸で江戸に帰ってし まった。
滅びし会津藩のその後
将軍慶喜は上野寛永寺に蟄居謹慎し、容保も会津に帰り謹慎して家督を喜徳に譲りひたすら恭順の意を表するが、長州の怨みを一方的にうけた会津は許されず、徹底的に処分の対象となった。
西軍参謀板垣退助、山県狂介は北進を続けた。いかにしても恭順を聞き入れられぬ会津は各街道口に守備隊を編成し、奥羽同盟として守るが5月1日、西軍に包囲された会津はついに国境を死守することになった。
慶応4年9月22日。会津藩降伏。正午には鶴ケ城追手門の路上に大緋毛氈が敷かれ、降伏の式事が行われ、松平容保父子は妙国寺に入って謹慎。翌23日開城し城中の会津藩士は猪苗代に収容された。24日には鶴ケ城に西軍の軍監中村半次郎が入場して城門に錦旗が立った。
12月、藩主松平容保は東京に送られ備前池田家に永預けとなり嗣子喜徳は久留米藩有馬家に永預かりとなり、会津藩は滅藩となった。
明治2年1月、猪苗代の兵士約3千人は東京に。城外(塩川)の兵士約千7百人は越後高田に謹慎を命ぜられ護送された。私の祖父安次郎は猪苗代に収容されたがその兄安之進は逃亡して仙台から榎本武揚の軍に参加し蝦夷に向かったといわれている。
斗南への移封
明治3年の春、ある者は海路をとって数10人、ある者は千数百人の大集団を組んで、一路斗南を目指したがそれは長く遠い、しかも苦しい旅であった。移動総数1万7千余斗南に移住がほぼ完了したのは、氷雨の降る同年10月の下旬であった。
三戸町石井家の萬(よろず)日記より
—明治3年4月25日
会津藩士300人ほど19日に八戸に到着し、20日三戸入りした。藩士には一人に2畳の割りで住居が定められ、一人当たり玄米4合、銭8文支給された。これでは一家が生きていく額に足らぬ。お気の毒なり。
—明治3年11月8日
会津藩士への支給は玄米3合となった。移住して来た人びとの衣服は薄く、荷物もひとり5貫目、これからどのように生きてゆけばよいのか、逆賊の汚名を着せられたとはいえ、同じ日本の同胞ではないか。
—明治4年12月30日
会津藩士は、不毛の原野と戦いつつ、いよいよ窮地に追いこまれた。三戸の同心丁に救貧院が 建てられた。手内職で生活の方途を立てようというのだ。死ぬ人も多い。しかし埋葬する場所にも困る有様。私の家にも安藤久米之進という藩士が訪れ、祖母が死んだのに埋葬するところがないという。何と不幸な人びとであろうか。
授産史
斗南移住後、すべて政府の救助米金に依存して、細々と生活を続けていたが明治五年四月をもってその扶助を打ち切られることになった。自分たちで養わなければならなくなった。
斗南ヶ丘の開拓
計画は立派であったが豊穣の地ならいざしらず、専門の百姓さえも冷害に泣いたのだから、武士が農業で身を立てられる筈がない。農業で生計を立てようとするものは三本木へ移住することになった。
旧会津藩士たちの暮らしは苦しく、農作業などによって手間賃を稼ぎ、生計を立てていました。(明治4年6月3日条)、こうした状況を改善すべく「救貧院」が田名部、五戸、野辺地へ建設され、職業訓練が行われました。三戸では同心町熊野林に「救貧院」が建てられ、「斗南藩貧人」が大勢やってきたとあります(明治4年12月31日)。
贋札行使の者処刑
藩主御一行が廃藩置県の断行によって、明治4年8月25日早朝、円通寺を出立、東京へ向かって田名部街道を進んだ。通常、野辺地まで13里24丁あるので、男子は一気に野辺地まで到着できるが、女子の場合横浜村で一泊するのが普通だった。
翌8月26日は、国元で贋札(にせさつ)製造、行使が発覚して佐井村居住の旧斗南藩士、佐藤雪之助、長岡信治、北見金蔵(40才)、赤羽平助(39 才)、加賀勇吉(30才)、森金甚太郎(30才)、右、6名が打首の刑に処せられ、他の一人、日下幸八は流刑十年に処せられたのである。
藩政時代最後の処刑場となったであろうこの刑場は、当時の田名部村より5キロ程離れた田名部街道筋、雨森に特設された。雑木林の若木を切って竹矢来を 作って代用したと、104才まで生きた伊勢浩太郎氏に聞いたことがある。 処刑当日は雨模様であったがお役人のお触れもあり、近郷近在から多数の見物人が 集まったと伝えられている。
泰然と罪の責任をとる
最初に処刑されたのは佐藤雪之助であったが、他の5人に「お先に参じ申す」と言い残し、泰然自若として死んでいったと伝えられている。恐らく、他の5人も同様であったと思われている。
見物人たちは、泰然として罪の責任をとった藩士たちの落着いた態度に圧倒されたに違いない。死刑執行人は斗南藩士、星隆左衛門氏であり、明治5年壬申戸 籍法によると、当時41才であった。星隆左衛門氏は一人につき、一両の斬首手当が支給された。星隆左衛門氏の孫に当たる重忠氏は、むつ市、出戸村に居住し
農業を営んでいた。処刑に使われた大刀は甥である睦夫氏が戦時中、軍刀として使用し、現在も小樽に居住の睦夫氏が保管している筈である。
私は、重忠氏の隣村に住んでいたので同じ斗南会津3代目の誼で訪ねることが多かった。先祖が処刑を執行した者の10糎程の位牌を作り、俗名を記して毎朝ご飯をお供えし、供養して来たと話していた。小さな位牌は時を経て字が読めない程真っ黒になっていた。
衣食に困窮敗残の悲しさ
余談ではあるが、斗南藩時代に刑事掛を勤めていた大堀清吾氏の話しによると、処刑者は全員下北半島の奥地、佐井村に居住していた。旧藩時代、それぞれが 捕虜として高田に収容され、妻子と離れて暮らしていたが、冬が近くなっても妻子は衣食に困窮し続けていた。敗残の悲しさであり、そのような状態の中で犯し
た罪だったのである。佐井村は本州最北端でここよりは道が無い。眼前に蝦夷地の山々が指呼の間に見える。意を決して武士を捨て、妻子共ども逃げることが出 来たら良かったのに、と今にして思うのである。
苦難の地にも日新館
斗南での生活は困窮を極めたが、藩士は横迎町の立花屋文左衛門氏の倉庫を借り受け日新館を開校。遠隔の地には分局を設けて子弟の教育に力を入れた。町家にも勉学を呼びかけたことは特筆すべきであった。
大畑に居住していた荒木賢愛の子息、荒木剛は八歳の時すでに会津藩日新館で漢字を修めていた。開始された日新館大畑分局に再入学。更に大畑小学に学んで 明治7年10月30日、18歳にして下風呂小学校長を務め、以来一度も転出することなく生涯この学校に勤務した。実に33年の長きにわたってである。退職
に際して村から住居と敷地、薪炭用の山林を贈られ永住した。下風呂の高台には大きな自然石に「荒木剛先生の墓」と刻字された墓碑が建立されている。
このようにして移住した会津藩士は教育界に多大なる功績を残したのである。