斗南藩歴史研究会
このサイトは、斗南藩歴史研究会(会長・大庭 紀元)の皆さんを中心に執筆していただいています。
斗南藩は、廃藩置県であまりにも短命の藩であったため史実が風化してしまわないうちに、出来るだけ知り得た情報を後世に残して置きたいという事から始まりました。
2024年2月4日
斗南藩歴史研究会 事務局長
山本 光一
斗南藩歴史研究会 会則
第1条 (名称)
本会の名称を斗南藩歴史研究会と称す。
第2条 (事務局)
本会は、次に置く。
青森県八戸市大字田向字毘沙門2-2 NPO法人青森県福祉サポート協会内
斗南藩歴史研究会 事務局 E-mail. silver@apple-npo.com
第3条 (入会資格)
本会は、原則としてNPO法人青森県福祉サポート協会会員を以て組織する。
第4条 (目的及び事業)
本会は、斗南藩歴史調査研究をとおして、地域への提言・助言などを行い斗南藩の史実を探索することを目的とする。事業として調査会、情報交換会、史跡めぐり、情報誌・新聞などへの情報提供等を目的とする。
第5条 (役員)
本会運営のために、次の役員を置く。役員の任期は、2年とし再任を妨げない。
会 長 1名(大庭 紀元)
副会長 2名(滝尻 善英)
事務局長 1名(山本 光一)
2 各役員の職務は次のとおりとする。
会長は、本会を代表して会を総括し、会議を招集し議長を務める。
副会長は、会長を補佐し、会長事故ある時はこれを代行する。
理事は、会長・副会長を補佐し運営に係わる担当を務める。
事務局長は会員への諸事連絡を担当する。
第6条 (顧問)
本会は会費を徴収しない顧問をおくことができる。
・顧問は、理事会の過半数以上の同意を得て、会長が委嘱する。
・顧問は、会長の諮問に応じて意見を述べ、会議に出席し意見を述べることができる。
第7条 (会議)
本会の会議は、理事会、運営会議とし、理事会は年1回。運営会議は必要に応じ開催し、会員はだれでも参加できる。
第8条 (定足数)
本会の会議は、会員の過半数の出席で成立する。
第9条 (運営)
本会の運営は、NPO法人青森県福祉サポート協会(斗南藩歴史研究会)会員から徴収する会費を もってあてる。
第10条 (会計・会費)
本会の会計年度は、NPO法人青森県福祉サポート協会に加入した日から1年間とし、会計は同法人内においてする。
第11条 (変更)
この会則は、理事会において、出席者の3分の2以上の承認があれば変更できる。
付則 この会則は、平成 25年 8月 1日から施行する。
はじめに
斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日に容保(かたもり)の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870年)1月5日に旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれ成立した藩である。「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、当初は三戸藩といったのを改めたものである。
会津藩を没収された会津松平家は、改めて元南部藩領の北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられた。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門の指揮のもと300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の青森県むつ市田名部の円通寺に移った。
また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。表高は3万石となっているが、藩領は不毛の地であり、実高7千石に過ぎなかったと言う。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。このため生活は過酷を極め、移住した藩士の中には娘を妾や女郎として売ることを余儀なくされたり、飢えと寒さで命を落とすものが多数続出したと言う。
その後、斗南藩は明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、その後斗南県少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年のうちに弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入された。また、一部たる二戸郡は岩手県に編入された。
廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、大多数が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ郡長・県会議員・町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。
藩主:松平容大(まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕
【参考文献】ウィキペディア フリー百科事典